1. 池田湖金銀鉱床と池田石・大谷(おおたに)

2. 天狗の祠下の小岩塊群

3. (あつまり)(がわ)の三瀧


1. 池田湖金銀鉱床と池田石・大谷(おおたに)

池田断層沿いの金鉱山マップ(指宿市誌) 右の画像は、指宿市誌(指宿市役所総務課市誌編さん室,1985年)33ページにある“図1-9”の一部です。★が金銀鉱山跡、☆が池田石採石場跡なのですが、各鉱山の名称や詳細な位置についての記載がありません。 図の左側に付けた各鉱山の名称は、古宇田亮一“池田湖カルデラ西方金銀鉱床群(地質ニュース 410号,1988年,産業技術総合研究所 地質調査総合センター)”と上迫哲二“池田金鉱山(揖宿史談 第2号,指宿史談会,1982年)”を参照して推定したもので、対応関係は正確なものではなく、名称不詳のものも残っています。

上迫哲二“池田金鉱山”には、個々の鉱山について、

✔大谷鉱山:大谷川左岸;

✔小金鉱山:大谷鉱山南西;

✔立神鉱山:中浜部落西北部

山岳の頂点を中心に、北は 小金鉱区、西は烏帽子岳鉱区に 隣接;

✔烏帽子岳鉱山:宮ヶ浜-頴娃県道沿い;

✔河内山鉱山:指宿スカイラインの両側に沿った堀切園部落坂上一帯;池田仮屋部落の水源は

河内山鉱山横坑掘削跡からの湧出水を利用;

✔金切鉱山:畠久保部落上部東南方の山脚地帯;

✔根五郎鉱山:岩平鉱山に続く鬼門平北端

といった記載があるものの、大谷、小金以外は、位置を特定しかねています。

こちらは指宿市誌662ページの地図。上の図にあるものの一部についての鉱山名が示されていますが、やはり明確ではありませんし、大谷鉱山の北西に残されている坑道はここにある ③小金鉱山、④日影鉱山だけではなさそうです(“古期南薩火山岩類”のページ、“池田石・大谷石”の項に埋め込んでいる“池田石採石場跡周辺マップ”をご参照ください)。指宿の金山は複数の小規模事業者によって採鉱されていたため、単一の坑道に金鉱名が振られていたケースが多いという構造的な背景もあります。

池田湖北部金山分布図(指宿市誌)

そこでご相談です。

① 鬼門平断層崖に沿った熱水変質帯は、単に地質遺産というだけではなく、金銀鉱山跡という産業遺産としての性格ももつものです。“古期南薩火山岩類”のページで大谷鉱山を紹介し、その他の坑道跡の画像をギャラリー風にまとめたページへのリンクも設けていますが、更にコンテンツを充実させたく、★1~16 に関し、正確な名称、アクセスのルート等につきアドバイスを頂きたいと思っています。

② 無瀬浜に広範な露頭のある福元火砕岩類(山川石)は、生成時期が明確ではなく、阿多カルデラ噴火以前とする説と、以降とする説があります。“以前”とする成尾英仁・小林哲夫“鹿児島県指宿地域の火山活動史:阿多火砕流以降について:火山および火山岩(日本地質学会学術大会講演要旨 901983325日)”は、“特有の黄色をした同一岩相、鉱物組合せの火砕流堆積物が北西部の鬼門平断層崖沿いにも広く分布することがわかった。そして少なくとも断層崖の一部を構成する小浜溶岩におおわれていることから阿多火砕流以前に噴出したものである。山川町西南部のものはカルデラ形成の際取り残されたものと考えられる”としています。


“鬼門平断層崖沿いにも広く分布する”“同一岩相、鉱物組合せの火砕流堆積物”は、池田石、もしくは大谷石を指すと考えられるのですが、指宿市誌に“採石場一帯では岩相変化が大きいが、全体的には淡黄色で軽石・安山岩片・花崗岩片を含み、山川石と全く同一”とあるものの、根拠が明示されておらず、山川石、池田石、大谷石の組成を比較分析した資料をみつけることもできません。

どなたかお心あたりをおもちの方はいらっしゃいませんでしょうか。

この項の先頭へ

 

魚見岳天狗の祠下の小岩塊群 2. 天狗の祠下の小岩塊群

画像は魚見岳の天狗の祠から天狗岩の方に少し下ったところにある小岩塊群です。2016年の暮れに“縄文の森をつくろう会”のメンバー4人で祠の破損状況を確認に来た際に気になり、どうも人の手が入っている可能性があるのではないかという話になりました。魚見岳の自然岩塊にしては何れもが小型ですし、中には荒平石のように見えるものもあります。

寡聞にして天狗の祠とは別に何か石造物が存在していたというような情報に触れたこともなく、漠然とした疑問が残っているだけの状態なのですが、何かご存知の方がいらっしゃれば、情報をお寄せ頂ければ幸いです。


この項の先頭へ

魚見岳天狗の祠下の小岩塊群 魚見岳天狗の祠下の小岩塊群

 

 3. (あつまり)(がわ)の三瀧(小浜溶岩

薩藩名勝志鹿児島県立図書館蔵に拠れば、集川の滝は3箇所。二番目が中瀧、最下流にあるものが塩靏の瀧です。下の画像は左が下流で右が上流。緯度・経度から計算すれば、直線距離にして80~90mの範囲に並んでいます。薩藩名勝志では、中瀧と塩靏の瀧は200mほど(弐町許)離れているはずなので、ここでもう混乱してしまいます(実際には、ここで最上流としている右の画像から先に遡る経路を見つけることができなかったので、その先までを確かめている訳ではないのですが・・・)。 集川の滝



三國名勝圖會の集川の滝図版(中瀧と塩靏の瀧) 薩藩名勝志の図版については鹿児島大学附属図書館様からのご許諾を申請していませんので、薩藩名勝志の図版を全編臆面もなくコピペしてしている三國名勝圖會版国立国会図書館デジタルコレクションのものを転載します。左が中瀧(瀑)、右が塩靏の瀧(瀑)なのですが、強いて言えば、中瀧が上の画像の最下流にあるものに見えなくもありません。となると、塩靏の瀧は既に失われていることになります。最下流にある滝から100mも下れば、水質浄化施設です。

では、現在最下流にある滝が中瀧で、その上にあるのは“上の瀧”でしょうか。ところが、薩藩名勝志(鹿児島県立図書館蔵)には、“上の瀧ひきし”とあり、当時から既に面影を失っていた可能性もあります。

訳がわかりません。

どなたか薩藩名勝志にある“三瀧”の位置を特定できる方、或いは浄水施設等の建設に伴う景観の変化等についてご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか。

ご参考までに、簡単な動画を作成してみました。下流から上流に向かって辿る形としています。

また、ここには磨崖仏らしきものがあることも確認しています。これについての来歴も不詳ですので、情報をお寄せ頂ければと思っています。

集川の滝壺に彫られた磨崖仏

集川の滝壺に彫られた磨崖仏 20171023日の左の画像では、女性像が剥落しかかっているようにも見え、懸念しています。

これらの画像が彫られている滝壺の手前の崖には、下の画像の磨崖仏も彫られています。頴娃、開聞は修験道の盛んな土地でしたから何れもが山伏由来かと思われるものの、今のところ確証を得るに至ってはいません。

集川の滝壺の前に彫られた磨崖仏











この項の先頭へ





Copyright © All rights reserved.