福元火砕岩類

無瀬浜の福元火砕岩類露頭(山川石)

山川福元から海食洞をもつ(また)川洲(ごし)を望む無瀬浜にかけての凝灰角礫岩・火山礫凝灰岩・凝灰質砂岩層で、宇井忠英“鹿児島県指宿(いぶすき)地方の地質(地質学雑誌 第73巻 第10号,196710月)”の“山川火砕流”に相当。竹山溶岩と断層で接します。無瀬浜に露出している凝灰角礫岩には、急冷縁をもつ本質岩片も確認できます(左の画像をクリックすれば、別角度からの拡大画像が表示されます)。

山川福元の溶結凝灰岩は山川石と呼ばれ、風化耐性が強い一方で加工が容易であることから、建材として広く利用されました。


成立時期についての定説はなく、宇井(1967)は、池田火砕流堆積物に覆われていることが確認できる以外、他の地層との層序関係が不明であり、岩相変化が水中噴火によって形成された可能性を示唆してはいるものの、これを裏付ける観察結果はないこと、 無瀬浜の福元火砕岩類と鳶ノ口の竹山溶岩の接合 またその場合には阿多カルデラ噴火発生時には現在の海抜120mの地点まで海中にあったという条件が求められること、を述べるのみで、明確な推定年代を提示していません。特有の黄色岩相と鉱物構成をもつ火砕流堆積物が鬼門平断層崖に沿っても広く分布し、小浜溶岩に覆われていることから阿多カルデラ以前の地質であるとする成尾・小林(1983)の講演要旨[1]もありますが、ここでは、①古期南薩火山群に認められる角閃石がない、②新期指宿火山群同様、苦鉄質鉱物が輝石のみである、③本火砕岩類がほとんど変質していない、とする川辺・坂口(2005[2]に従い、インデックス・ページでは新規指宿火山群に属する地質として分類しました。 推定組成年代で70万年前後の差は、4,000年前の開聞岳火山の活動開始を昨夜の呑方での不始末としかねない誤差ですけど。

右の画像をクリックすれば、動画をご覧いただけます。

 

山川石

地頭舘跡の山川石の石組み(現指宿市役所山川支所) 魚見岳周辺の天狗の祠尾掛の石造物を始め山川石で造られた遺構は旧指宿市にも数多く残されていますが、街並みには荒平石と呼ばれるMATSUMOTOの阿多カルデラ噴火由来の赤みを帯びた溶結凝灰岩が目立ちます。山川に入ると目に入る塀は山川石で造られたものが多くなり、山川の豪商河野覺兵衛邸跡(山川入船町)に残る石垣も山川石。ヨーロッパで土地によって教会や城砦の色が違うことに似ています。

薩藩名勝志で“無瀬濵 福元村の灘なり、地頭仮屋の午未弐拾五町余”等々と、場所を示すための基準とされている地頭館の跡に建てられている指宿市役所山川庁舎の南の道路に面した塀も、地頭館時代に積まれた 山川石です(画像クリックで別の道路側の画像をご覧頂けます)。

 

また、山川は丁字路の多い町で、山川庁舎の北側の道路も、西側の道路を挟んで庁舎と向かい合う山川文化ホールに遮られる形になっており、山川文化ホールにぶつかる所には石敢當(せっかんとう)(石散当)が置かれています。悪霊が道を直進して敷地内に入ることを防ぐための中国起源の魔除けで、山川には琉球経由で伝えられたようです。1945812日の空襲で町全体が壊滅的な被害を受けたこともあり、比較的新しい時代のものも多いのですが、数は50を超え、殆どが駒形の山川石です。

下の画像は、山川小学校から横井坂を下って町に入る道が終わるところに置かれた、その中で最も古いとされているもの。珍しく長方形です。

山川で最も古いとされている石敢當 “(泰山)石敢當”は、現在の山東省泰安市にある中国五聖山の一つ泰山に住んでいた、悪鬼を退治する力をもつ伝説の英雄、或は魔除けとしての風習から敷地に置かれた泰山石が神格化され、更には人格をもつに至ったもの、等々、由来について諸説あるようですが、何れも本来は人(神)名であり、文字そのものに意味を求めることはできません。“石散当”は、風化した遺構の“敢”を“散”と誤読した上で、“散・丸・湯”という漢方三役から連想される即効性と破壊力を想わせるニュアンスの馴染み易さから定着してしまったものでしょうか。悪霊が当たれば散じる石という後付けの解釈にも都合がよさそうですが、平仄は [shí gǎn dāng] で“散”の音は [sǎn] ですから、“石散當”は名詞として存在していないと思います。台湾/中国のWeb検索エンジンで“石散当(當)”と入力しても、ヒットするのは日本語のサイトのみです。

 

余談:鹿屋市波之上神社

鹿屋市波之上神社の心勝供養塔

山川石で造られたもののうち最も古い年号を確認できる遺構は、僧侶心勝の一周忌に当る嘉暦3921日(1328111日)に納められた供養塔で、正面に大日如来を表すとされる梵字が刻まれています。山川ではなく、鹿屋市の波之上神社(高須町1674)にあります。

画像の右のものは荒平石でしょうか。年代は不詳ですが、山川石との風化耐性の差は歴然です。

鹿屋市波之上神社の敬心逆修塔と供養塔 その右側に並ぶ小型の4基は僧侶敬心の逆修塔と供養塔。手前の逆修塔には元弘21月(133225~35日)、奥の逆修塔には元弘2823日(921日)と南朝方の、内側の供養塔2基には一周忌として正慶22月(1333223~324日)と北朝方の年号が彫られているという不思議な取り合わせです(右の画像をクリックすれば、奥の供養塔と逆修塔の一部が拡大表示されます)。この地を治めていた肝属氏が南朝方であったことを考えれば、供養塔の正慶は極めて謎めいています。

逆修塔に刻まれた元弘2年は、北朝年号では元徳4年/正慶元年。改号は428日(1332531日)ですから、手前のものは鰻地蔵の石柱とほぼ同じ時期の遺構ということになります[3]

 

余談:大宮姫と豊玉姫

薩藩名勝志の無瀬浜図版(竹山・俣川洲・開聞岳) このページの最初の二つの画像は無瀬浜からのものです。

麑藩名勝考(鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所1982)には“()瀨濱(セノ)”として、

福元村の海灘なり、相傳ふ、むかし天孫海宮に遊行し時の御道の墟也、俗に誤て天智帝の后大宮姫の船の着し所といへり、

三國名勝圖會では“無瀨濱”で、

上古豐玉姫、龍宮城より頴娃開聞に赴かれし時、上陸の處なりといふ、国立国会図書館デジタルコレクション

という説が紹介されています。

大宮姫(幼名端照姫)は、出自が知られてしまったことで故郷に戻られた、天智天皇の妃とされている方です。豊玉姫については説明の必要もありません。海神大綿津見の娘で、山佐知毘古(山幸彦;火遠理(ほおり)(のみこと)。日本書紀では(ひこ)火火出見(ほほでみ)(のみこと))の御母堂、皇統の祖である神武天皇((かむ)(やまと)伊波禮毘古(いはれひこ))のおばあさまでありおばさますから、豊玉姫説は、天孫御幸説に近いものがあります。麑藩名勝考の枚聞神社の項には、

旧傳曰、頴娃本江てふ言より出たり、この地むかし海江にて、嶽のミ嶋のことく現れ居たり、又曰、開聞本宮は豊玉姫を祭る、其御墓は本宮の右側に在る山陵是也と云

とあり、豊玉姫と山佐知毘古の出会いの場と伝えられる龍宮門前の玉の井(開聞十町)の周りには、(おがん)()(拝ヶ尾)、饗田(京殿)御返事河(ごへしご)(御弊子川)、婿入谷(むこいのたん)、といった、出会いから結ばれるまでのプロセスを慕うようなロマンティックな地名が残っています(かつて頴娃は現在の開門を含む地域でした。これらの地名については、“関東かいもん会”のホーム・ページのコンテンツ“開聞昔話”のうち“玉の井”の項にも紹介されていますので、そちらもご参照ください)。これらの土地からは縄文・弥生時代の遺物も出土していますから、龍宮界であったかどうかはともあれ、先史時代にも集落が存在していたことに間違いはないようです。

豊玉姫伝説由来とされる地名をもつ遺跡

 

尚、頴娃という地名の由来には諸説あります。“頴”は“穎”の俗字で、穂先、先端、転じて抜きん出るの意ですが、薩洲頴娃開聞山古事縁起[4]に拠れば、“水”を意味する語で、玉ノ井に因みます。“娃”は麗しい女性(佳人)。豊玉姫を指しますから、地名そのものが神話の世界です。

もっとも、三國名勝圖會では、“縁起に、當地は太古の龍宮界といひ、玉井、聟入谷等の遺跡をいひ傳ふがごとき、齊東野語の類に似たり・・・・・(巻二十三 二十四,国立国会図書館デジタルコレクション)”と、魚見岳の項で触れている天智帝・大宮姫伝説と同様、荒唐無稽な眉唾もの扱いです[5]





[1] 成尾英仁・小林哲夫“鹿児島県指宿地域の火山活動史:阿多火砕流以降について:火山および火山岩”,日本地質学会学術大会講演要旨 901983325日。指宿市誌(指宿市役所総務課市誌編さん室,1985年)にも、池田石に関し、“採石場一帯では岩相変化が大きいが、全体的には淡黄色で軽石・安山岩片・花崗岩片を含み、山川石と全く同一”との記載がありますが、何れの文献にも組成分析等の根拠は示されていません。池田石については、“古期南薩火山岩類”のページにある“池田石・大谷石”の項をご参照ください。
[2] 川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質”,国立研究開発法人産業技術研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅-鹿児島(15)第100号。ポータル・ページでお断りしているとおり、文献調査をまとめたこのサイトの基本文献の一つです。
[3] 鹿児島県内で最も古い紀年銘のある方柱板碑は、MATSUMOTOの阿多カルデラの東縁、錦江湾対岸の南大隅町にある宇都の遺構で、山川石ではありませんが、凝灰岩で造られています。
[4] 神道大系 神社編 四十五,神道大系編纂会,1987
[5] 三國名勝圖會は、天智帝・大宮姫伝説に対する反証の論拠を、麑藩名勝考にあるものを整理、補足した10項目に亘って述べた挙句、“此他猶論ずべき亊多しといへども、繁を厭て記さず”と締めくくっています国立国会図書館デジタルコレクション。どうも大人気ありません。

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