池田湖テフラ

伏目海岸の池田湖テフラ露頭
伏目海岸の噴気帯越しの俣川洲

()(さがり)スコリアの噴出後、池田湖付近で多量のテフラ噴出を伴うプリーニ式噴火が 池田湖テフラの年代値表 発生したと考えられています。ポンペイ(Pompei)を埋没させたヴェスヴィオ山(Monte Vesuvio)型です。これによって、白色流紋岩を主体とする池田降下軽石が、大隅半島まで及ぶ広範な地域に堆積しました。5,600~5,700年程前の現象と推定され、続いて発生した火砕流の堆積物(池田火砕流堆積物)は、火砕流堆積物としては指宿地方で最上位に位置し、成川、山川、開聞岳、池田、宮ヶ浜といった鬼門平断層南側の地形を形成している他、頴娃側の大野岳・矢筈岳山麓にも流下しています。

山川には3つの断層に囲まれた陥没構造の中に発達した地熱系が存在し[1]、伏目海岸で活発な噴気が観察できる他、中心部(山川小川2303)では、九州電力㈱の地熱発電所が操業しています。池田湖テフラは、池田火山の活動により堆積した池崎火山灰、尾下スコリア、池田降下軽石、池田火砕流堆積物、池底・鰻池マール噴出物、山川火砕サージ堆積物、池田湖火山灰等の総称ですが、砂蒸し温泉が運営されている砂浜の海食崖は、このうち池田湖降下火山灰に覆われる池田火砕流堆積物の露頭の絶好の観察ポイントです。新エネルギー総合開発機構“地熱開発促進調査報告書 No.B-6 辻之岳地域20013月)”に拠れば、最寄りの試錐地点(N11-TD-3:小塚浜温泉地帯北西約1.5Km)での池田火山噴出物の層厚は約30mですから、その殆どを地表で確認できることになります。

池田火砕流堆積物は、主に白色軽石によって構成される非溶結の層で、伏目海岸では、粗粒砂の薄層が複数挟在しています[2]

【追記】 2018年の指宿は、珍しく台風の直撃を免れたのですが、6月から 7月にかけての台風接近時の降雨の影響によって伏目海岸の海蝕崖の一部が崩落し、残念ながら景観は変化してしまいました。

以下の 2葉は 8月の台風 19号、20号の風雨が収まった後に、状況を確認した際の画像。新しい露頭が現れたことに加え、足元で間近に岩相を確認できるようになったという悲しい喜びもあるのですが、依然として危険な状態にありますから、訪問される際にはお気を付けになってください。


崩落後の伏目海岸海食崖 崩落後の伏目海岸海食崖

2018年降雨量

 

うなっ()せご(西郷)どんのみっ()

警視総監、海軍大臣等を歴任した樺山資紀による福村はつ子とその長男平左衛門の談話の聞き書き[3]に拠れば、明治71874)年旧正月の20日頃、目が大きく色の黒い小柄な他国人が、袴を着けない常服(袷)に木履(下駄)という姿ではつ子の夫である福村市左衛門が営む山川鰻の宿に逗留中であった西郷隆盛を訪れ、19時から1時間ほど会談しました[4]。佐賀の乱の戦線を離脱した江藤新平です。

江藤はその日、隣の庄左衛門家に一泊し、翌日8時に西郷を再訪。議論が進むにつれて声高になり、最後に腕を捲り上げた西郷に“己レノ言ヲ幾度云フテモ諾セサレハ 宛カ違ヒマス”と叱咤され、“殆ント倭縮ノ体ニテ一礼ヲナシ旬々ノ体ニテ”退出した、と樺山文書にはあるのですが、はつ子が後に別の取材に応じて語ったところでは、会談はより緊迫したものであったようです(毎日新聞社サンデー毎日編輯部“生きてゐる歴史 - 西郷隆盛と江藤新平”,敎材社,19401120日,国立国会図書館デジタルコレクション)。

それに拠れば、江藤は“今一度出やつたもし”と、膝詰めで何度も懇願し、その声も徐々に大きくなってきました。当時32歳の若女将だったはつ子(当文献では“ハツ”)は気が気ではなく、何事も手につかない状態だったのですが、突然、西郷の“ユーテンユーテン(言っても言っても)キキレ(聞容れ)ガゴザラント、サツマヲトコハ、アイテガ、チゲ(違い)モンド!”という大声が響いたので堪らず部屋に転り込み、江藤が縁側から脱兎のごとく飛出すのを目撃します。西郷も目をゴム毬のように大きく見開いていたそうですから、両者激昂していたと思われます。

樺山文書の“宛カ違ヒマス”の“宛”は、後の聞書きでは“アイテ”ですから“相手”のようですが、何れにせよ“料簡が改まらない限り、(薩摩に)尻を持込むのはお門違い”という意味であろうことに変りはありません。喧嘩別れとなったとすれば、議論は平行線を辿ったといったような生易しいものではなく、相容れるところが全くなかったとも考えられますが、江藤の料簡とはどのようなものだったのでしょう。

初代の高知県令で後に逓信大臣、農商務大臣を務める林有造は、佐賀の乱勃発直前に鹿児島の西郷を訪ね、その後、江藤に面会しています。当時、江藤は、国許の騒擾の沈静を待つために長崎の深堀に滞在していました。しかしながら、林の印象は、“江藤氏の語氣を察するに殆んど籏を擧るの勢にて且つ肥人先ず起てバ薩土ハ必す之に應ぜんと臆斷するもの丶如し”といったものでした。林は、“万一佐賀にして事を擧ぐるも西郷翁ハ敢て動かざるべし”と諭しますが、江藤は“最早騎虎の勢となり復た西郷の進退を顧るに暇あらすして其意暗に土佐ハ必す應すべしと頼み居る体”であったとのことです(坂崎斌編“林有造氏 舊夢談”,嵩山堂,189184日,国立国会図書館デジタルコレクション)。

鰻での会談の決裂は必然であったかもしれません。

 

樺山文書の江藤は、2度目の会談後、“何方ヱカ出発”したとのみありますが、ハツ(はつ子)に拠れば、後を追った西郷が飛掛かってきた江藤の腕を捉え、何事かを話しかけているのを見た村人がいたとのことですから、江藤の頭には相当に血が上っていたようです。

取材者は、指宿の郷土史家とされている中川路九萬一談として、西郷は鰻での会談後に従僕2人を伴って江藤と指宿に下り、地蔵馬場通の漢方医 高崎庄兵衛宅で昼食を共にして数刻密談を交わしたというエピソードを紹介しています。高崎家家人の話では、江藤が厳刑に処せられることがあれば西郷は罪を減ずるために力を尽くす、といった内容であったとのことですが・・・如何なものでしょう[5]

江藤が指宿-鰻の往復に辿ったのは、当時木材の搬出に使用されていた林道であったようです。指宿の市内総生産に占める林業の比率は20153月年度で0.1%統計いぶすき,指宿市総務部市長公室,20177月)に過ぎませんが、かつては摺ヶ浜で輓馬による浜競馬が催されるような町でした。現在の指宿の建設会社の多くは、林業従事者を前身としています。

十二町から鰻にかけて権現山成層火山体を横切る林道は、やがて現役を退いて中学校運動部のトレーニング・コースとなり、その後廃道となったものの、長崎フルベッキ研究会”の石田孝氏のご発案に基き、NPO法人“縄文の森をつくろう会”20132月に明治時代の地図に基く復元を完了(台風による崩落、最近になっての新たな林道の敷設等に伴う地形の変化があるため、当時の林道を完全に再現したものではありません。大日本帝國陸地測量部による1901年測図はこちらで)。“うなっ()せご(西郷)どんのみっ()”と名付けて、当時のエピソードを紹介するガイド・ツアーを開始しました。 指宿十二町と鰻温泉を結ぶ旧林道沿いの池田降下軽石露頭 2018年には山体で宿泊施設を経営する吟松別館 悠離庵様からの申し入れがあり、その宿泊客も利用できるより安全なコースも提供されています。会だけの力では実現を期待することもできなかった道幅の拡張工事が行われたおかげで、これまでは見ることができなかった池田降下軽石の露頭も現れました。噴火の強度の変化によるものと思われる粒径差が不明瞭な層理を形成する、池田火砕流堆積物よりも僅かに早い時代の地質遺産です。これを覆っているのは池底・鏡池マール噴出物でしょうか。

指宿側からコースを辿ると、しばらくして一般道にぶつかり、右下の画像にある標識が設置されています。標識は北を指していますが、ガイド・ツアーは、参加者の年齢構成等に応じ、安全面に配慮した吟松別邸悠離庵様の敷地内を通る南回りの迂回ルート(実はこちらが本来の林道に近いルートです)を案内させて頂くことがございますのでご了承ください。

うなっ せごどんのみっ ルート・マップ

 

鰻温泉口から 0.7Km(指宿十二町口から 3Km)の地点からは、旧林道を外れて大きく迂回しますが、これは、鹿児島市の甲突川五橋のうち二橋を流したことでも知られる 8・6水害(平成51993)年8月豪雨)の先行降雨により77日に崩落が発生して以降、旧林道が完全に廃道となっていることによるものです。念のために痕跡を確認してみましたが、とても責任をもってご案内できるようなコースではありません。 1993年7~8月の降水量


こちら2018年秋のツアー用に作成したパンフレットです。


 

余談:明治61873)年の政変

西郷と江藤は、基本的に見ている景色が違っていたのではないかと思われる節があるのですが、それを考えるに当って、先ず明治6年の政変から。

明治元(1868)年に新政府は朝鮮に国書を送りますが、“我邦皇祖聯綿”のくだりの“皇祖”、対馬守宗重正の携えた書にあった“皇室”、“奉勅”の語が不適切であるとして、朝鮮側は受理を拒絶します。この問題は明治51872)年まで尾を曳くことになり、既に明治3225日(1870326日)には、朝鮮側の非礼についての謝罪を得るための軍事的示威行動を求める建白書[6]が上奏されています。更に、明治6年に興宣大院君が発したとされる詔が火に油を注ぎ、在鮮邦人の身柄の安全を確保するための派兵、という主張に足掛かりを与えることにもなりました。“伊藤博文言行録”に拠れば、その内容は以下のようなものです。

日本夷狄に化す、禽獸と何ぞ別たん、我が國人にして日本人に交わるものは死刑に處せん、

秋山悟庵編“伊藤博文言行録”,内外出版協会 偉人研究 第79編,1913

国立国会図書館デジタルコレクション

また、朝鮮側の掲示書には以下の内容のものがあったとされています。

彼ハ制ヲ人於受クト雖モ恥シ不。其形ヲ變ヘ俗ヲ()ヘ。此則チ日本之人ト謂フ可ラ不。其我カ境ニ來往スヲ許ス可ラ不。騎ル所ノ船隻。若シ日本ノ舊様ニ非サレハ。則チ我カ境ニ入ルヲ許ス可ラ不。マタ彼ノ人ノ所爲ヲ近見スニ。無法之國ト謂フ可シ。マタ須ク彼ノ中於頭領之人ヲ此意ヲ以テ洞諭スヘシ。妄錯ノ事ヲ生スルハ 後悔有ルヲ以テ至ラ不ラ使ムヘシ。

多田好問編“岩倉公実記 下巻”,皇后宮職,1906915

国立国会図書館デジタルコレクション

明治61873)年6月の廟議では外務大輔上野景範が、特命全権使節の派遣と在鮮邦人の引揚げの二案択一を提案します。板垣退助は当初派兵を主張したものの、却って朝鮮吏民の疑懼を招く惧れがある、として全権大使の派遣を支持する西郷隆盛の意見を容れ、これに賛同しました。三條實美は、全権大使に陸海軍を伴わせる案を提示しますが、西郷はあくまでも平和使節とすることにこだわり、全権大使として自らが任命されることを望みます。初日での合意には至りませんでしたが、全権大使の派遣については後の廟議で採択されました。

一方で、人選は難航します。外務卿副島種臣は自らがその任に当たることを望み、三條は西郷の身に危険が及ぶことを案じて、任命に難色を示しました。桐野利秋等も、西郷を死地に追い遣ることになりかねないとして、板垣に翻意を促すことを嘆願しています。板垣が桐野の意図を伝えに訪ねた際の西郷の様子が書き遺されています。それに拠れば、西郷は板垣が口を開く前に以下のように語ったとされています。

頃日桐野來れるにより、予は彼に對し、汝の從弟に向つて今回こそ死んで呉れよと言ふに、汝は之を沮止せんとす、何ぞ從弟に恥ぢざるやと、叱して此を去らしめたり、

板垣退助監修 宇田友猪・和田三郎共編“自由黨史 上”,五車樓,1910

国立国会図書館デジタルコレクション

板垣は、その真偽を問うことも桐野の意志を伝えることもなく西郷邸を辞しました[7]

副島は、西郷が直接訪れてその思うところを伝えたことで西郷支持に回ります。2人の間で何が話し合われたかを知る術はありませんが、おそらく副島は、西郷が彼に相応しい死場所を求めていることを覚ったのではないでしょうか。

この時期、公金不正融資事件に関与した山城屋和助の屠腹(明治51129日(18721229日))、翌年には陸軍省公金の横領が発覚した三谷三九郎事件とこれを肩代わりした三井家への権益譲渡、といった長州閥がらみの不祥事が続発。西郷は板垣に、“予は今日の時世に厭きたり、故に北海の地に退隠して老を養はんと欲す”と語るほどの心境に至っていました[8]729日付の板垣宛の書簡の中では、“斷然使節を先に被差立候方御宜敷は有之間敷哉 左候得者 決而彼より暴擧の事差見得候に付 可討之名も(たしか)に相立申候”、“副島君の如き立派の使節は出來不申得共 死する位の事は相調へ可申候哉”とあり、自らの死を派兵の口実とさせることを意図していたとも思われます。同様の文脈は、817日の板垣宛書簡の“使節被差向候へば 必ず彼が輕蔑の振舞相顯候而已(のみ)ならず 使節を暴殺に及候義は決て相違無之事に候間 其節は天下の人皆擧て可討之罪を知可申候”云々からも読み取れます。この書簡には“内乱を(こいねが)ふ心を外に移して國を興す遠略”ともあります。内政が不安定な局面での古典的常套手段です。

この817日は、板垣、副島等の支持により、西郷を全権大使とする使節団の派遣が満場一致で採決された廟議が開催された日でした[9]。朝鮮政策よりも内政を優先する立場をとる大隈重信、大木喬任も異を唱えてはいません。

三條は宸断を仰ぎ、使節団の正使として外遊中であった岩倉具視の帰国を待って、熟議した後に改めて奏上する運びとなります。

 

死を決した西郷の意図は、三條にも伝わっていたと思われます。

今度ノ使節ハ平常ノ使節ニ非ス 必死ヲ期セシムルノ使節ナリ 使節殺サレテ後ニ始テ戦爭ヲ決スルハ晩シ 必死ヲ期スルノ使節ヲ派遣スルノ日 已ニ戦爭ヲ決セスンバアル可カラス

三条實美 岩倉具視宛明治61111日付書簡

多田好問編“岩倉公実記 下巻”,皇后宮職,1906915

国立国会図書館デジタルコレクション

ただ、海軍大輔を務めていた勝海舟から軍備の実情を聞いていたこともあり、即時開戦につながることが確実と考えられる使節派遣は時期尚早であるとも考えていたようです。

朝廷ニ於テモ使節ヲ殺スノ覺悟ナリ 君ニ代ルノ使節殺サレテ戰ハサルハ道理ニ於テモ情義ニ於テモ決シテ有ヘカラス

然ルニ如何セン海軍ノ不備所詮戦術ニ闕クル所アリ 勝大輔ニ問フニ大輔曰ク戰術決シテ整ハス 萬一政府ヨリ戰爭ヲ命セハ職ヲ辭スルノ外ナシト云々 因テ今新ニ軍艦數艘ヲ速ニ外國ヨリ購買スルコトニ着手シ宜ク急ニ其人ヲ選ンテ米歐ニ派出シ堅牢の軍艦數艘ヲ購買シ海軍ヲ備ヘ然ル後ニ發途スヘシ (ヨツ)テ已ムヲ得ス歳月ヲ遷延セサルヲ得ス

三條實美 岩倉具視宛明治6926日付書簡

多田好問編“岩倉公実記 下巻”,皇后宮職,1906915

国立国会図書館デジタルコレクション

 

岩倉は912日に帰国。大久保利通を参議に加えることで三條と意見の一致をみます。要請を固辞し続けた大久保も 1010日にこれを受諾。当初12日に予定されていた廟議は大久保入閣の都合で14日に延期され、そこから16日まで続いた議論は、終始朝鮮遣使派の優勢で進みました。17日には木戸、大久保、大隈、大木が辞表を提出。岩倉も書状を三條に送り、進退を伺う事態に至ったのですが、遣使派の命運は思わぬ形で一挙に暗転します。

三條が議決を上奏し宸裁を仰ぐはずであった“翌十八日

曉 實美劇疾ヲ發シ人事省セス”

多田好問編“岩倉公実記 下巻”,皇后宮職,1906915

国立国会図書館デジタルコレクション

これにより、20日に太政大臣摂行を天皇より直接親諭された岩倉が、22日に西郷、板垣、副島、江藤を自邸に迎えて提示した方針は、両案を奏請し、選択を天皇に委ねるというものでした。

“隆盛等辞色激昂抗論已ム無シ”という状況の中、岩倉は“予不敏ト雖 三條氏其人ニ代リテ職事ヲ理ムルニ非ス 旨ヲ奉シテ太政大臣ノ事ヲ攝行スルナリ 予カ意見ヲ併セテ之ヲ具奏スルモ何ノ不可カ之レ有ラン”という理屈で、自らの方針を曲げませんでした[10]

23日、摂行岩倉は参内して上奏。内容は、“之カ備ヲナサス今(タチトコロ)ニ使節ヲ發スルハ 其不可ヲ信ス 而テ萬已ムヲ得サルノ義アルモ戰ニ從事スルカ如キニ至テハ基ヲ堅クシ備ヲナスニ非サレハ 實ニ其不可ヲ知ル”というものでした。岩倉は翌日の召見で以下の勅書を賜ります。

朕繼統ノ始ヨリ先帝ノ遺旨ヲ體シ誓テ保國安民ノ責ヲ盡サントス 賴ニ衆庶同心協力漸ク全國一致ノ治體ニ至ル 於是國政ヲ整ヘ民力ヲ養ヒ勉メテ成功ヲ永遠ニ期スヘシ 今汝具視ノ奏狀之ヲ嘉納ス 汝宜ク朕カ意ヲ奉承セヨ

多田好問編“岩倉公実記 下巻”,皇后宮職,1906915

国立国会図書館デジタルコレクション

この日、西郷等は参議を辞職。大久保等の辞表は25日に却下されました。

 

岩倉案は果たして彼の独創だったのでしょうか。大久保は、19日の日記に“予モ此上ノ處 他ニ挽回ノ策ナシトイヘ𪜈(トモ) 只一ノ秘策アリ[11]”と、これを黒田清隆に伝えたことを記しています。三條の発病はその前日ですから、板挟みとなったことによる心労によるもので、三條までが加わった周到なプロットとは考えにくいような気もしますが、あまりにも鮮やかな逆転劇には、どうも胡散臭さが漂います。

 

江藤新平

明治61873)年1014日の廟議の席で岩倉は、“樺太ノ露國人暴行、臺灣生蕃ノ暴行、朝鮮ノ遣使 此三事案ハ孰レモ重大ナリ 能ク先後寛急ヲ慮リテ以テ其處分ヲ議定セント欲ス 獨リ朝鮮遣使ノミヲ以テ目下ノ急務トシテ論スヘキモノニ非ス”と述べ、“宜ク此間ニ於テ内治ヲ整頓シテ以テ外征ヲ謀ルノ力ヲ蓄フヘシ”と主張します。“樺太ノ露國人暴行”は函泊出火事件[12]、“臺灣生蕃ノ暴行”は宮古島島民遭難事件[13]ですが、西郷は、朝鮮の件は皇威、国権にかかわるものであり、樺太、台湾の件とは性格が異なる。樺太が朝鮮に優先されるのであれば、自らを遣露使節としてもらいたい、と反駁[14]。樺太は外交交渉に委ねるべき事項であり、台湾の事件は清国の統治も及ばない原住民の蛮行である、というのが遣使派の一貫した姿勢でした。

論戦に決着はつかず、議論は翌日に持ち越されることになるのですが、彼我の主張がこれまでの過程で充分に相手側に理解されているであろうと思われるにも拘らず、15日の廟議前、江藤はご丁寧にも前日の議論に関する書簡を岩倉に渡しています。念を押す意味があったのかもしれませんが、“そこからぁ~?”感を否めない凡人には理解しづらい水準で生真面目な人物ではなかったかと思われます。

この中で江藤は、朝鮮戦を決定した場合、やむを得ない状況ではロシア戦も覚悟すべきである、という、既に8月の廟議で決定済みの西郷を使節とする朝鮮遣使の実行に水を差しかねない主張を展開しています。この頃には朝鮮遣使に踏み切った場合の使節暗殺が開戦につながることは参議共通の認識となっていたと思われますが、廟議の席で板倉側が“朝鮮ハ野蠻ニ付 若シ西郷ヲ殺サンノ患有之ニ付 其使節派遣ヲ手順相立候上ノ事”という詭弁を弄したことに対しては、国家のために死を覚悟した人物への対応ではなく、英雄に対する礼を失する、と、少なからず違和感を覚えざるを得ない角度から反論しています[15]。どうも西郷の意図が共有されていたかどうか首を傾げたくなるところがあります。

 

自らが望むところではなかったとはいえ佐賀の乱に加担し、挙句同胞に対することわりもなく自党を解散して戦線を離脱した江藤は、明治731日に鰻温泉に逗留中の西郷を訪ねることになります。林有造の回想にある江藤は、有岡城で叛した荒木村重のような精神状態にあったのかもしれませんが、動機を測り難いところもある行動ですし、福村はつ子の見聞をみれば、さすがの西郷も多少持て余し気味であったのかもしれません。二日に亙る会談の詳細を知ることはできませんが、二人の話が噛み合っていたとは到底思えません。

大久保が江藤を憎悪していたことは、佐賀の乱首謀者の裁判の様子を記したその日記に、“江東ママ陳述曖昧實ニ笑止千万 人物推而知られたり(明治749)”、“今朝江藤 島 以下十二人斷刑ニ付 罰文申聞カセヲ聞ク 江藤醜躰笑止ナリ(13)”と殊更に貶める記述のあることでも知られています(国立国会図書館デジタルコレクション)。薩摩と同盟を結んで維新を成し遂げた長州の盟友を自らの外遊中に司法卿として弾劾したことを腹に据えかねていたのかもしれず、大久保を参議に加えるために奔走した人物の筆頭が伊藤博文であったことをみても、大久保と長州閥の関係は極めて密でした[16]

明治6年の政変の目的は岩倉・大久保側が確立を目指す体制に組入れ難い勢力を排斥することにあったと思われますが、その標的は西郷ではなく、江藤であった可能性も考えられるのではないでしょうか。

 

西郷が厭世感をもつに至る直接の原因も、江藤の追求した長州閥の腐敗でした。大久保が後に“陳述曖昧實ニ笑止千万 人物推而知られたり”とする江藤が同じ議論の場についた廟議で、大久保と西郷は江藤の論ずるところをどう感じていたのでしょう。鰻で西郷を激昂させるに至る江藤を西郷がどのように評価していたか、本音を知りたいところです。

佐賀の乱の首謀者達は、江藤と共に斬首されることを潔しとしたのでしょうか。





[1] 吉村雄三郎“鹿児島県山川地区の地熱資源とその開発”,温泉科学 第 42巻,1992年; 吉村雄三郎・伊藤寿恒“鹿児島県山川町伏目地区における地熱探査とその開発”,資源地質 445),1994年;神谷雅晴・中川進・西村進・角清愛“鹿児島県指宿市・揖宿郡指宿地熱地域の熱水変質帯”,地質調査所報告 第259号(日本の地熱地域の熱水変質帯の地質学的研究 そのⅠ),1978
[2] 稲倉寛仁・成尾英仁・奥野充・小林哲夫“南九州,池田火山の噴火史”,火山 第59巻 第4号,2014年。
[3] 西郷翁山川村鰻温泉場福村市左衛門宅滞在中記憶実話,19102月,個人蔵
[4] 会談は31~2日、江藤の指宿出立は3日であったようです。
[5] 中川路九萬一は、しばしば“薩摩半島史績名勝写眞帖”の筆者として名を見ますが、人物不詳で、寡聞にして“史績名勝写眞帖”なるものを見掛けたこともありません。伊賀倉俊貞の“校正麑島外史国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です)”のような胡散臭い与太読本の類ではないかという疑念を拭いきれませんので、参考資料に採用することは差し控えます。このエピソードが拠るところを確定できるようであれば、記載は改めます。
[6] 佐田白茅外二人帰朝後見込建白,公文録 明治八年 第三百五巻 朝鮮講信録,国立公文書館 アジア歴史資料センター
[7] “岩倉公実記”では、桐野は副使として西郷に同行することを望んだ、とありますが、これは西郷の意志を変えることができないことを確認した後のことかもしれません。
[8] 板垣退助監修 宇田友猪・和田三郎共編“自由黨史 上”,五車樓,1910年,国立国会図書館デジタルコレクション
[9] 木戸孝允は9月半ばまで西郷が使節として派遣される予定であることを伝えられていなかったようで、915日付の書簡で三條がその旨を確認しています(三條實美書簡 明治6915,大隈重信関係文書 第ニ,日本史籍協會,1933825日,国立国会図書館デジタルコレクション)。
[10] 多田好問編“岩倉公実記 下巻”,皇后宮職,1906915日,国立国会図書館デジタルコレクション。“板倉公実記”に拠れば、この場の桐野利秋は、“(ヒジ)(カカ)ケ劍ヲ撫スルコト再三囘ナリ”と、人斬り半次郎の面目躍如ですが、板垣監修の“自由黨史国立国会図書館デジタルコレクション”の注記には、“世の征韓論の事を記する書中、二十二日の岩倉邸の會に、桐野利秋の在りしを説くものありと雖も大だ誤れり。當時桐野は参議の列にあらず、焉んぞ其會合に入ることを得んや”とあります。尚、“人斬り”の異名はあるものの、中村半次郎が直接手を下したことが確認できているのは薩摩藩に兵学教授として招聘された信州上田藩士赤松小三郎の暗殺のみです。
[11] 大久保利通日記 下巻,日本史籍協會,1927425日,国立国会図書館デジタルコレクション
[12] 開拓次官黒田清隆は422日の函泊出火事件の事後処理の一環としての居留民の保護を目的に、その数ヵ月後にロシアとの武力衝突を想定した派兵検討を要請しています(函泊出火事件附録,明治61026日,開拓使樺太支庁庶務課,函館市中央図書館デジタル資料館)。729日付の板垣宛の書簡の中で、西郷は“兵隊を先に繰込候譯に相成候はゞ樺太の如きは最早魯より兵隊を以て保護を備え 度々暴挙も有之候事故 朝鮮よりは先に保護の兵を御繰込可相成事と相考申候(自由党史 上巻,国立国会図書館デジタルコレクション)”と、朝鮮よりも樺太を優先すべきであると考えていたかにも見える文言を記していますが、“条件さえ揃えば”、と理解することで、自らの命との引換えでの朝鮮派兵を念頭に置いたものとも解釈できます。但し、“諺ニ云 蝮蛇手ヲ蟄セハ 壮士疾ク腕ヲ断ツ”の句で知られるその年5月の建白書で、黒田は“獨リ樺太ノ事ニ至ツテハ 臣終ニ策ノ施スヘキヲ覩ス・・・<中略>・・・力ヲ無用ノ地ニ用テ他日ニ益ナキハ寧ロ之ヲ顧ミサルニ若カス”と樺太の放棄を進言していました(開拓次官黒田清隆 建言シテ樺太ノ地ヲ棄テ北海道經理ニ盡サント請フ,太政類典第二編 第百廿六巻 第三類 地方三十二 特別ノ地方 開拓使 六,明治六年五月,国立公文書館デジタルアーカイブ)。板垣は、条約締結国との間の外交交渉で処理すべき案件を利用して自らの功とするために大久保と結託して朝鮮遣使を妨害したことは大久保の日記にある記載(脚注11)でも明らかであるとして、黒田を“奸物”と断じています(板垣退助監修;宇田友猪・和田三郎共編“自由黨史 上”,五車樓,1910年,国立国会図書館デジタルコレクション
[13] 明治4年に宮古島の船が台湾近海で遭難し、54名が原住民に殺戮されたことで、樺山資紀、大山綱良等が台湾出兵を主張しています。
[14] 多田好問編“岩倉公実記 下巻”,皇后宮職,1906915日,国立国会図書館デジタルコレクション
[15] “爲國家必死ヲ以テナス人ヲ御待遇被遊之道ニテモ有之間敷 又英雄ヲ御スルノ方ニ而モ有之間敷奉存候” 多田好問編“岩倉公実記 下巻”,皇后宮職,1906915日,国立国会図書館デジタルコレクション
[16] 伊藤の書簡には、明治6927日付の岩倉宛のものにある“朝鮮一條等も有之 大久保ならては((とて)も目的無御座候 私ハ其人物ニ議論有之候譯にてハ無之 今已ニ大難目前ニ迫り候故 旁以(かたがたもって)大久保ならてハ終ニ成就難仕と奉存候”等々、大久保を強く推す文言が多く見受けられます。(大久保利通文書巻二十四,日本史籍協會,1928725日,国立国会図書館デジタルコレクション

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