(じっ)(ちょう)溶岩

余談:鹽土(しおつち)(おきな)

十町溶岩の露頭


十町溶岩(Jcl)は松原(まっばん)()から入野にかけて開聞岳北麓に分布する橄欖石斜方/単斜輝石玄武岩溶岩で、直接これを覆うテフラ層位11-aと同時期の、1,500年ほど前に流下したと考えられています。藤野・小林(1997[1]の十町溶岩のうち開聞岳南岸に分布する開聞岳南溶岩と区別する形で川辺・阪口(2005[2]で再定義されたもので(開聞岳南溶岩も新称です)、文献によっては藤野・小林(2005)の分類を踏襲しています。噴出テフラ量の規模に基づく8段階評価では11-aの火山爆発指数(VEI:Volcanic Explosivity Index)は3Moderate)です(但し、VEIには溶岩の噴出量が勘案されていません)。

 

開聞縁起曰、大宮姫は日神の化現、又号玉賴宮、孝徳天皇白雉元年、薩摩國頴娃郡開聞麓の崛仙人あり云、仙人塩土翁の化現也、この仙人法水三七日修行する時に、()鹿(シカ)(リテ)法水しかは、懐孕して妙相姫、白雉元年二月十八日辰時也、

麑藩名勝考(鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1982

 

“開聞山古事縁起(神道体系 神社編四十五,神道大系編纂会,1987)”に拠れば大宮姫がこの麀鹿(開聞山古事縁起では“麋鹿(ビロク/なれしか) [3]”)の口からお生まれになった時、金色の光が天に(のぼ)り、庵は黄金の雲に覆われます。美しい花が咲き乱れ、香気が漂って辺りを満たし、巖には半月形が現れました。数百の瑞相を備えていた姫の幼名は“瑞照姫”。翌年の上洛まで、南斗星の精霊とも言われる南極仙 鹽土翁の窟屋で過ごされます。“揖宿神社(開聞九社大明神)縁起”では“長主山崛”とされるこの窟屋は、開聞中学校からかいもん山麓ふれあい公園に向かう途中にある“天の岩屋”と呼ばれる祠で、下の薩藩名勝志の図版で左ページ右下にある岩塊にあります。右ページの觀音堂は、開聞山古事縁起が著された延享三(1745)年には既に廃寺となっていた磐屋山瑞照寺の遺構でしたが、こちらも現存しません(画像クリックで三國名勝圖會版の拡大画像がpop-up表示されます)。下左の画像の手前に見えるのは、薩藩名勝志鹿児島県立図書館蔵に“巖に自然の半月形あり、是奇事といへり”と記される大宮姫がお生まれになった時に現れた溶結。残念ながら2016年の台風で剥落してしまったようです(201738日に撮影した画像はこちらです)。奥に並ぶ石塔の中には、永禄年間(1558~70年)の頴娃()山伏(やんぶし)によるものと思われる逆修塔もあります。かつて開聞郷は頴娃の郡の一部でした。

2016年の台風前の天の岩屋の月形
薩藩名勝志の天の岩屋(開聞北麓崛)図版

 

ただ、伝承自体は釈尊の御母堂である摩耶夫人の出生伝説をそのまま拝借したものかと思われます。


去城不遠有山。名曰聖所遊居。以有百千辟支佛住此山中故。無量五通神仙亦住其中。以多仙聖止住其中故。號聖遊居山。其山有一仙人住在南窟。復有一仙住在北窟。二山中間有一泉水。其泉水邊有一平石
爾時南窟仙人在此石上。浣衣洗足已便還所止。去後未久。有一雌鹿來飲泉水。次第到浣衣處。即飲是石上浣垢衣汁飲此衣垢汁已。迴頭反顧。自舐小便處
爾時雌鹿尋便懷妊月滿生。鹿生法。要還向本得胎處。即還水邊住本石上。悲鳴宛轉生一女。爾時仙人聞此鹿悲鳴大喚。爾時南窟仙人聞是鹿大悲鳴聲。心生憐愍即出往看。見此雌鹿生一女。爾時鹿母宛轉舐之。見仙人往便捨而去
          ・・・・・<中略>・・・・・
佛告阿難。爾時鹿母夫人者。今摩耶夫人是。摩耶夫人供養五百辟支佛。及修無量善業。是故今者得生如來身。佛說此法時。有無量百千人天。得初道果乃至四果。有無量生。發阿耨多羅三藐三菩提心

大方便佛報恩經 第三巻 論議品第五,大藏經 本縁部 第三巻

SAT大正新脩大藏經テキストデータベースSAT大藏經テキストデータベース研究会,

東京大学大学院人文社会系研究科,次世代人文学開発センター)

経典ですので返点等を振って読下すのは控えたため、お解りになり難いかとも思いますが、南窟仙人が南極仙鹽土翁、摩耶夫人(鹿母夫人)が大宮姫。南斗は生を司り北斗は死を司るとする考え方も反映された伝承でしょうか。摩耶夫人の生年は不詳で、釈尊の生年についても諸説ありますが、大宮姫がお生まれになる1,000~1,700年ほど前のお話です。


 

余談:鹽土(しおつち)(おきな)

高千穂を発った瓊瓊杵(ににぎ)(のみこと)は、吾田長屋笠狹之御﨑に至り、木花開耶姫(神吾田鹿葦津姫)と出会うことになるのですが、その時に尊を迎えたのが事勝國勝長(コトカツクニカツナガ)(サチ/サト)でした。

彼處(ソコ)一神(ヒトリノカミ)。名事勝國勝長狭故天孫(カレアメミマ)其神ヒテ。國在耶。對ヘテ在也。因(ミコト)()奉矣(タテマツラム)。故天孫彼處タマフ。其事勝國勝神者是伊弉((イザ)諾尊((ナギノミコト)((ミコ)也。亦名鹽土老翁。

日本書紀国立国会図書館デジタルコレクション

川尻に製塩を司る塩釜どんとして祀られる鹽土の翁は阿多の神、事勝國勝長狭であり、後に瓊瓊杵尊(邇邇芸命)の子 山幸彦(彦火火出見尊)もこの阿多の神に導かれて兄の釣針を取り返すことになります国立国会図書館デジタルコレクション。伊弉諾尊(伊邪那岐命)の子ですから実は瓊瓊杵尊の大叔父で、大宮姫がお生まれになる170万余年前に瓊瓊杵尊が降臨された時には既に姿を顕しておられた神様です。

“長主山”は、開聞岳が長狭を主とする山であることに因む呼称とされています[4]。“聖”を意味する則天文字の“𨲢”の各部首(镸 + 𠙺 + 主。𠙺は則天文字の王)を連想させなくもありません。 鹽土老翁(事勝國勝長狭)系図


 

明治六(1873)年に現在の南方(みなかた)神社に改称されるまで諏訪大明神として祀られていた山川成川の“お諏訪様(成川公園のある背後の丘陵が諏訪(すわ)(んやま)です)”は、御祭神のうちの一柱が事勝國勝長狭。浜児(はまちょ)(みず)の鎮守大明神に祀られていたものが、明治の神社整理に伴い合祀されたとのことです。

(かん)()3年毎(西暦年の4桁の数字の合計が3で割切れる年)、“グレ”と呼ばれる廻巡幸祭(宮入れ)の2日目に奉納されています(成川神舞についてはこちらのページをご参照ください)。

諏訪社 鳴川村にあり、古昔は神領許多ありしに、文禄元年、寺社領毀破の時、官に収入す

三國名勝圖會国立国会図書館デジタルコレクション

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[1] 藤野直樹;小林哲夫“開聞岳火山の噴火史”,火山 第42巻 第3号,1997年。
[2] 川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質”,国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅-鹿児島(15)第100号。
[3] 山野に隠棲することの例えとして使われる蘇東坡(蘇軾)の“前赤壁賦”にある“友トス麋鹿”で知られる大型の鹿ですが、棲息範囲は北方ですから、おそらくは転記の誤りかと思われます。基本的に対応する種のない日本での“ナレシカ”は、通常“トナカイ”に宛てられるのではないかと思います。
[4] 開聞岳の別称には“長主山”や“開聞岳火山”のページで紹介している“(うつ)()島”の他に“鴨着島”といったものがあるとされています。“カゴシマ”の語源が“水主(かこ)(しま)”であるという説もあり、隼人の祖が海幸彦であることを考えれば、その辺りからの連想でしょうか。“鴨着島”と並べて紹介されることの多い万葉集の

(オキツ)鳥 鴨云舩(トリ カモテフフ子)()(カヘリ)來者 也良乃( ヤラノ)埼守(サキモリ) (ヤク)(ツゲ)許曽(コソ)
(オキツ)鳥 鴨云舟(トリ カモテフフ子)者也良乃(ヤラノ)(サキ) 多未弖(タミテ)(コギ)來跡所(クト) (キカ)禮許奴可聞(レコヌカモ)


安田十兵衛“萬葉和歌集 十六”,1643年国立国会図書館デジタルコレクション


では“鴨”の註に“ヨク水にウカフユヱ舟ノ名トス”とありますが、この二首は“筑前國志賀白水郎(アマ)歌十首”に含まれるもので、これを開聞岳と結び付けるにはグレコ=ローマン級の力業での発想の飛躍が必要です(桜島を“鴨着島”としているものもあります)。

薩洲頴娃開聞山古事縁起(神道大系 神社編 四十五,神道大系編纂会,1987)に拠れば、出産時に龍の姿となっていたことを山幸彦に知られた豊玉姫が、これを恥じて竜宮に戻る際の別れの歌のやりとりとして、

うらむとも さすかわかれやおもふらん あらきなきさのなミの立いに(尊)
わか玉のひかりありと人はいゑと 君かよそひしとふとくありけり(姫)


おきつとり かもつくしまにわか寝しいも わすれしよのこと(尊)

が記されていますから、“鴨”は“無目籠(まなしがたま)”を指すものなのかもしれません。


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