開聞岳火山

薩藩名勝志の開聞岳図版 薩藩名勝志鹿児島県立図書館蔵の開聞嶽の項には挿絵が4葉含まれており、そのうちの1枚は坊津から枕崎越しに開聞を望む雄大な構図に、坊津に配流となったこともある近衛信輔(信尹(のぶただ)1565~1614年)卿の歌を添えるという、心憎い演出です[1]

開聞岳は、浸食谷がほとんどみられない円錐形の美しい玄武岩質の成層火山で、池田火山の活動に続く玄武岩マグマの噴出によって形成されましたが、現在の姿は、貞觀16874)年仁和元(885)年の二度の大噴火を経たことによるもので、開聞縁起に拠れば、開聞岳の別称の一つで、近衛信輔の歌にもあるうつぼ嶋(空穂島)の名は、 開聞岳溶岩ドームからの鉢窪・花瀬溶岩礁・入野溶岩台地 貞観の噴火で山頂に空洞が生じたことに由来するものとされています(麑藩名勝考,鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1982)。当時の噴火口の北縁跡は、標高650m程度のところにある鉢窪と呼ばれるくびれとなって残っており、直径約800m程度であったと推定されています。鉢窪から下の部分が開聞岳主山体なのですが、露出は北西から南東にかけての北側に限られ、南側では貞觀の噴火の噴出物に覆われます。鉢窪から上を構成するスコリア丘、溶岩ドームと溶岩流は、仁和の噴火の噴出物です。

登山道を辿れば、足元がスコリアから溶岩に変わるのを体感できます。

 

開聞岳登山道脇のスコリア層

開聞岳溶岩ドームの仙人洞 鹿児島の地質を代表するものとして小学校で教わる“シラス”は、姶良カルデラ由来で(入戸火砕流堆積物)、頴娃の南薩台地も、所謂“シラス台地”です。指宿市では、高江山東方の岩本を中心に分布してはいるものの、地表で一般的に観察される土壌ではありません。一方、地元で“コラ(甲羅)”と呼ばれている土壌があります。薩摩言葉で“塊り”あるいは“堅いもの”を意味する、開聞岳噴火由来の非溶結輝石安山岩を中心とする砂礫が固化したものです[2]。特殊土壌地帯災害防除及び振興臨時措置法(昭和二十七年四月二十五日法律第九十六号)の施行に伴い奄美群島を除く鹿児島県全域(県土面積の86.5%)が対象に指定されたのは、シラスのせいばかりではありません。

岡児ヶ水の開聞岳テフラ層 開聞岳の活動は4,000年程前に始まったとされています[3]。藤野・小林(1997[4]は、貞観の噴火による噴出物の下位に11のテフラ層が認められるとし、これに貞観、元和の噴火によるものを含めた12のテフラ層は、更にその活動時期に応じて細分され、複数の“コラ”がここに含まれています。貞観、仁和の噴火による堆積物に覆われていることから、これらのテフラ層を主山体で確認することは困難ですが、山川の川尻から村石にかけての海岸に露出がみられ、周辺には、層位から噴出年代を推定することのできる地質遺産も残されています。

 

下の表は、藤野・小林(1997)に基く、開聞岳各テフラの地質年代で、数字がテフラ層、細分列に示すアルファベット/数字は、薄い層として挟在するテフラ亜層です。このサイトでは、周辺地質のいくつかをこの表に対応させることで、内部構造を把握することのできない開聞岳主山体の紹介に替えています。

テフラ層位6が神武天皇の時代。以下、77代孝霊、810代崇神、911代垂仁、10が神功皇后、1126代継体。ローマ建国(BC753年)から東ゴート王国建国(AD493年)までの大概大概(テゲテゲ)1,000年程度の期間にほぼ重なります。

テフラ層位12を形成した貞觀、仁和の噴火については、“874年噴火噴出物”、“885年噴火噴出物”の項をご参照ください。

開聞岳テフラ層年代表

 

下のグラフは産業技術総合研究所 地質調査総合センターの “1万年噴火イベントデータ集(ver. 2.3”に基く開聞岳火山の層位別マグマ噴出量です。

薩洲頴娃開聞山古事縁起(神道大系 神社編 四十五,神道大系編纂会,1987)に拠れば、開聞岳は景行天皇20103日(901110日)、一夜にして湧出して山となり、その跡が池田湖になりました。“開聞岳で池田湖を埋めると平地になる”という俗説を生むことになったと思われるこの伝承に科学的根拠はありませんが、噴出量の多い層位9の年代に符合する興味深い記述です。

開聞岳火山の累積マグマ噴出量

 

橄欖石(オリビン)

川尻海岸砂に含まれるオリビン(橄欖石) 橄欖石はマグマが固化する時に最初に生じる珪酸塩鉱物で、開聞岳の玄武岩溶岩や度重なる噴火によって周辺に堆積したテフラ層にも多く含まれています[5]。開聞岳由来の花瀬溶岩十町溶岩開聞岳南溶岩横瀬溶岩田ノ崎溶岩も、橄欖石を含有する斜方・単斜輝石玄武岩溶岩流です。比重が約3.5と大きいことから、海沿いの橄欖石は浸食、風化作用を受けた後も滞留し易く、波蝕等により指宿から頴娃にかけて海岸沿いに移動したと考えられます。南薩には大型の河川が存在せず、これは開聞岳に近い川尻の海浜を中心とする分布の形状の背景にあるのではないでしょうか。画像も川尻で採取した海岸砂に含まれていた橄欖石で、円の直径は約4.5cmです。 海岸砂に含まれるオリビン(橄欖石)の比率の比較グラフ


川尻の海岸砂に含まれる砂鉄 “オリビン”は“オリーブ”から派生した名詞で、女神ペレの涙とされるハワイの火山涙の一種、ペリドート(Peridot)も橄欖石ですが、指宿・頴娃の橄欖石もペリドートと同じく苦土系ながら[6]、若いオリーブの実を想わせるような緑色ではなく、上の画像のような光透過性の高い枯竹色から辛子色を呈しています。光に透かせばジンジャー・エイル/ビール色でしょうか。

下の表で苦土系に次いで鉄系の組成比率が多いのは、橄欖石を選別する作業の過程で海岸砂に含まれる砂鉄の量を目の当りにすれば納得して頂けるかと思います[7]

川尻で採取されるオリビン(橄欖石)の化学組成

尚、“橄欖”はオリーブの和名ですが(洋橄欖)、本来の“橄欖”は、熟した果実の見かけと搾油という利用法からの連想で転用されただけの東南アジア産の植物で、学名はcanarium album。バラ類のムクロジ目カンラン科(burseraceae)ですから、キク類シソ目モクセイ科(oleaceae)のオリーブ(olea europaea)との縁はなく、“橄欖石”は詐称です。





[1] 信輔卿の歌は、麑藩名勝考(鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1982)では“薩摩かたなミの上なるうつほ嶋これや筑紫の冨士といふらん”とされています。
[2] 藤野直樹;小林哲夫“開聞岳起源のコラ層の噴火・堆積様式”,鹿児島県大学理学部紀要(地学・生物学)No.251992年。
[3] 中村真人“開聞岳の火山噴出物と火山活動史 -とくに噴出物の量と時代関係について-”,火山 第2集 第12巻 第3号,1967年。
[4] 藤野直樹;小林哲夫“開聞岳火山の噴火史”,火山 第42巻 第3号,1997年。研究者によってテフラの識別基準が異ることから、認識されるテフラ層の数にも差があり、共通の見解は存在しません(中村(1967)等)。ここでは、ローム層を基準にテフラ層を区分し、岩相、色調、粒径の変化等によってテフラ・メンバーに細分した藤野・小林の説に従っています。
[5] 内村公大・浦嶋幸世“開聞岳のかんらん石”,Nature of Kagoshima Vol.392013521
[6] MATSUI, TomoakiOlivine sand from Kawashiri Beach in Kagoshima, Japan”,鹿児島大学教育学部研究紀要 自然科学編 Vol.522001327
[7] 桑水流淳二“鹿児島県本土の海浜と海浜砂”,鹿児島県立博物館研究報告第27号,20083月;(図版Ⅱ

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