2017年の一連の鹿児島湾地震 |
頴娃の波蝕棚 |
頴娃の滝と渓流 |
周辺の史跡:射楯兵主(釜蓋)神社 |
大根占・小根占(カルデラ東縁) |
番外編 - 吉利 |
錦江湾南部に広く分布する堆積物の存在から、MATUMOTO(1943)[1]は、その噴出源としての阿多カルデラの存在を想定しました。
MATUMOTOの阿多カルデラは、巨大なマグマ溜まりからマグマが大量に噴出する大規模噴火と同時に空洞になったマグマ溜まりの陥没が発生するクラカトア型(バイアス型;クレーター・レイク型)の活動によって10万~10万5,000年前に形成されたと推定されています。
お断りしておくと、先ず阿多カルデラという名称そのものが誤解を招き易い原因の一つとなっています。もともと阿多は南さつま市北部と日置市南部辺りを指す東シナ海に面した薩摩半島中西部の地名で、大隅半島までを含む錦江湾口に位置するMATUMOTOの阿多カルデラは、その所在地に因んで命名されたわけではありません。日向之高千穂に降臨した瓊瓊藝能命は、“阿多”にあった現南さつま市笠沙町で神阿多都比賣(亦ノ名ハ木之花佐久夜毘賣)に出合い、神武天皇の祖父に当る三男の山幸彦(火遠理命)と隼人の祖になる長兄の海幸彦(火照命)がお生まれになります[2]。確かにその後の海幸・山幸の確執は頴娃・開聞を舞台として展開されることになるのですが、頴娃・開聞は阿多ではありません。“阿多カルデラ”は、それまで想定されていた錦江湾口大隅半島側の肝属カルデラと薩摩半島側の指宿カルデラを一つのものとして新たに命名する際に皇統ゆかりの地というだけの意味で採用された名称に過ぎません。論文が発表された1943年は皇紀2600年の祝賀に浮かれてまだ3年、太平洋戦争の真最中でした[3]。
その成立年代の推計の一つをカリウム-アルゴン法で行い、10万8,000年±3,000年前と結論付けた松本・宇井(1997)[4]は、MATUMOTOがカルデラの存在の根拠とした溶結凝灰岩[5]を“阿多火砕流堆積物”としましたが、これがまた話を面倒にしています。というのは、“阿多火砕流堆積物”が、全く異なる別の年代の層を指すことがあるためです。
MATUMOTOの報告以降、阿多カルデラ噴出物の分布状況は数々の調査によって修正されており、荒牧・宇井(1966)[6]は、MATUMOTOが想定の根拠とした堆積物には、噴出源が阿多カルデラ内にはなく、より北側に位置していたものが含まれている可能性を指摘しました。右の図は産業技術総合研究所 地質調査総合センター“大規模噴火データベース”の“阿多カルデラ”のページにあるカルデラの位置情報を地理院タイルにプロットしたもので、南側のものが“MATUMOTOの”阿多カルデラ。北側が年代値の新しい“北部”阿多カルデラです。
荒牧・宇井(1966)説は主に以下の観察に拠るものとなっています。
1. 堆積物に含まれる異質岩塊に安山岩質火山岩類が多い一方、花崗岩質岩石が稀であることから、噴出源付近には花崗岩質岩石が極めて少量しか存在していなかったと考えられる;
2. MATUMOTOで想定された阿多カルデラ内には、開聞岳、鏡池、鰻池、山川湾、今和泉火砕流、鬼門平断層崖といった花崗岩質岩石を含むものが多く、比較的浅い部分に存在する花崗岩質岩体が、南大隅の花崗岩大岩体とつながっている可能性もある;
3. クラカトア型であれば観察される筈の重力異常(ブーゲー異常)線と陥没地形の整合性が確認できない。
荒牧・宇井(1966)は、従来“阿多火砕流堆積物”とされていたもののうち(MATUMOTOの)阿多カルデラ外部を噴出源とするものをもたらした火山活動が約2万5,000年前に発生したと推定し、その前後に実施された調査での14C(炭素14)法による放射性炭素年代測定結果は、以下にまとめたようなものとなっています[7] 。
荒牧・宇井(1966)の見解は、降下軽石の分布[8]、火砕流の流動方向[9] や海底地形からも支持されるものとなり、現在では、阿多火砕流といえば、阿多カルデラ内ではなく知林ヶ島の北辺りに存在した火山に由来するものを指すと考えることが一般的になっています。火山活動との関連性は明らかではありませんが、2017年には喜入沖を震源とする比較的大規模な地震がかなりの頻度で発生しました。
阿多火砕流堆積物は阿多カルデラ由来とは限らず、その阿多カルデラも阿多にはない、という港区品川駅駅ビルのマンハッタン・ストリートのような話ですが、荒牧・宇井(1996)は更に、
1. 大隅半島側の南大隅花崗閃緑岩の急崖は、阿多火砕流堆積物の分布状況よりみて、阿多火砕流噴出後に形成されたと考えられる;
2. 薩摩半島側の指宿に露出する火山噴出物は全て阿多火砕流噴出後に堆積したものである可能性が高く、これを除いた地形は周囲よりも明瞭に低い;
3. このような地形上の特徴は、鹿児島湾中部・北部でも認められる;
ことから、MATUMOTO(1943)で想定された阿多カルデラの位置を含む鹿児島湾全域が阿多火砕流噴出後に形成された大規模な構造的陥没地形ではないかとしています。
一方で、鹿児島湾がMATUMOTOで考えられていたような姶良・阿多カルデラとその中間部の陥没によって形成された地形ではなく地殻変動によって生じた地溝の一部であり、火山活動の発生し易い地盤が現在の加久藤盆地以南に広がっていたという考え方が太田(1964)[10] によって提示され、露木(1969)[11] は、これを鹿児島地溝と名付けていました。加久藤、姶良、阿多、鬼界の各カルデラはMATUMOTOの阿多カルデラの地質年代を遥かに遡る70万年ほど前に形成され始めたとされる鹿児島地溝内に連なります。説としては、鹿児島地溝帯に沿って噴出する場所を見出したマグマの形成した地形の一つが“MATSUMOTOの阿多カルデラ”であり、鹿児島地溝帯の二次的副産物の一つが喜入沖に噴出源のあるもう一つの阿多カルデラではないかと考える方が納得できるような気がします。地理院タイルにプロットした上の“MATUMOTOの”阿多カルデラは鬼門平断層崖がその西縁であったとの認識に基づくものとなっていますが、鬼門平断層崖を形成した池田断層の活動も鹿児島地溝帯との関連が高いのではないでしょうか。
“MATUMOTOの阿多カルデラ”由来とは考えられないものを“阿多”火砕流噴出物とすることには違和感を覚えるものの、単に皇紀2603年来の名称が惰性で使用されているというだけのことですから、符牒の一種として受入れるしかありません。
荒牧・宇井(1996)にもあるとおり、阿多火砕流が発生した後に新規指宿火山群の活動が始まったため堆積物の露出は鬼門平以南にはさほど多くありませんが、観音崎からみて指宿商業高校方向に拡がる松林の下の急崖に露出を確認することができます(At)。この地域の分布の南端には今和泉島津家墓所があり、道路を隔てた向かい側には阿多火砕流堆積物の露頭に刻まれた摩崖の五輪塔が残されています。基本的に赤みを帯び紫がかった濃い灰色の斜方/単斜輝石デイサイト質溶結凝灰岩で[12]、川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅 - 鹿児島(15)第100号)”で採用された試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有量は、こちらからpop-up表示される図に示す比率となっています。
阿多火砕流噴出物を間近に観察できるのは寧ろ旧指宿市の街並みで、石塀には荒平石と呼ばれる赤みを帯びた溶結凝灰岩が目立ちます(“荒平”は鹿屋市の地名で、菅原神社で知られる地域です)。湊の豪商濱崎太平次が造ったといわれる界隈や潟口の船溜り、五間川の護岸壁、宮ヶ浜の捍海隄、新しいところでは1957年に建設された野球場の外壁も荒平石の建造物です。不思議に思うのは指宿には荒平石の採石場と思われる遺構が見当たらないことで、大隅かもしくは頴娃から運び込まれたものでしょうか(頴娃の海岸には採石の跡が残されています)。
少し沖合に離れると、地元で“馬鹿州”と呼ばれる陸繋砂嘴で多良浜と結ばれる知林ヶ島、その北にある知林ヶ小島も、この火砕流の堆積物で[13]
、知林ヶ島に渡って左手に拡がる崖で、非溶結の堆積物が強溶結した火砕流堆積物に覆われている様子が観察できます(下の画像をクリックすれば、知林ヶ島南東側の非溶結堆積物層の画像が表示されます)。島を右方向に回れば、遊歩道につながる階段の上り口の先には流下しながら礫岩を巻き込んだ火砕流の破片と思われる強溶結岩塊が並ぶ岩礁が続きます。
知林港から知林ヶ小島方向に荒平石の岩礁を伝う左回りのコースと共にお勧めですが、何れもそれなりに注意が必要な行程です(安全上の観点から島を歩いて一周することは非公式に禁止されているようです)。
島に滞在する時間が長引くと馬鹿が消えてその日のうちに戻れなくなる惧れもありますから、お気をつけて。
知林港からそのまま時計回りに遊歩道を辿れば、蛇塚と呼ばれている一角があります。
知林ヶ島は、かつて尾掛の一部でした。江戸時代、大規模災害が発生した年に、尾掛と多良の住民が救済のために力を尽くします。これに感じた藩主に望みのものを問われ、尾掛は知林ヶ島、多良は金銭をと答えて叶えられたという経緯があったそうです。祠の左手前にある石柱に元文(1736~1740)とあるので、その当時のことかもしれません。島津家22代継豊の時代、マリア・テレジア(Maria Theresia)のハプスブルク家相続(1740年)の頃です。
祠にも石柱と同一の石材ではないかと思われる大谷石もしくは山川石で造られた部分があることから同じ時代のものであった可能性があり、無足明神を祀った遺構とされています。元文以来のいわれを伝えるものではありませんが、祠にまつわるエピソードもあります。
尾掛では 1939(昭和14)年大火、1945(昭和20)の空襲と災難が続き、1958(昭和33)年にも再び大火に見舞われます。加えて、戦後耕作を再開した知林ヶ島の畑は、鼠の大量発生に悩まされていました。そこで巫女さんに縋ったところ、しばらく島に手を入れないうちに増えていた蛇を駆除してしまったことで無足どんに祟られている、とのご託宣があったそうです。巫女さんが、“南無大悲觀音・・”と彫った板碑を祠に納めて供養した後、鼠の害は目に見えて少なくなりました。祠の中に確認できる石柱のようです。尾掛の巫女さんには、赤水岳の秋葉山にまつわる話もあります。
知林ヶ島は、1960年代に民間企業によって買収されますが、1964年に錦江湾地域が国立公園に追加指定され霧島錦江湾国立公園の一部となったこともあって開発されることなく放置され、その後、指宿市によって買い戻されました。“指宿知林ヶ島の潮風”は、2001年10月、環境省の“かおり風景100選”の一つに選定されています(潮・草花・樹木;一年中)。
南薩台地の一部を構成する大野岳以西の頴娃地方には、指宿火山由来の地質の露頭が殆どありません。このため南薩台地の母岩となる南薩火山岩類を覆う阿多火砕流噴出物(At)が枕崎市にかけての海岸に分布する波蝕棚を形成していることから、指宿とは性格の異なる景観を楽しむことができます。藩政時代には、この地形を利用した臺場も設けられていました。
“浦”、“堀”、“池”、“底”といった地形的特性を名称に含む小型の湾入が連なり、このうち石垣川の河口にあるものは、“石籬浦”として奈良時代に既に中央に知られる港でした。
天平勝寶六年四月癸未(754年5月18日)
大宰府言。入唐第四船判官正六位上布施朝臣人主等。薩摩國石籬浦ニ來泊ス。
續日本記(国立国会図書館デジタルコレクション)
“來泊”とありますが、戸柱公園にある平山郁夫画伯(第4代日本中国友好協会会長)書の碑は“遣唐使船漂着之地”。5度の渡航失敗の末、視力も失った鑑真和上が第二船で阿多郡秋妻屋浦(南さつま市坊津町秋目)に上陸を果たして3ヵ月後です[14]。
三國名勝図繪(国立国会図書館デジタルコレクション)にある、水成川の東、長浦、浦底の2湾を挟んで海中に突出する3町許(≅327m)の巖嘴“長手碕”は現在の番所鼻(觜)。“内池”、“外池”として紹介されている円形の岩礁があり、周辺でも同様の地形を多数確認することができます。
三國名勝図繪は、
凡、水鳴川以東、沿海の景状も佳なりといへども、其以西の奇勝に及ばず、其以西沿海の奇勝多しといへども、長手碕池北岸の眺望を第一とす、
とした上で、
往歳大府の測量官、伊能氏、諸國を巡歷して、此地を過きし時、景勝を賞して曰く、是名所の浦なり、列國の内にかくの如くなる景勝の處は、復得べからずとて、半日許駐滞して、この所の畫圖を寫せしとかや、
と記録しています。“大府の測量官、伊能氏”は伊能忠敬。文化七(1810)年夏の感想でしょうか[15]。
このサイトのヘッダーに使用している開聞岳の画像は、2017年元旦の石垣港の初日の出です。
高橋(1972)[16]は、南薩台地を覆っていた非溶結で軟質の鳥浜火砕流噴出物[17]の上に阿多カルデラ由来の溶結凝灰岩が堆積して形成された円丘の内部が波蝕作用により浸食されて空洞が出現。その後、上部の溶結凝灰岩が節理等に沿って崩落し、環状岩礁(高橋)が残されたと推定しており、薩藩名勝志の挿絵にも、環状岩礁と思われる地形が描かれています。
図でそこに注ぐ、七尺許(≅2.12m)のもの2段、河口近くに一丈二尺許(≅3.64m)のもの1段が三歩許(≅5.45m)の間隔で並んでいた、と三國名勝図繪にある水成川の滝は姿を消してしまったらしく、“水鳴川”の名の由来を偲ぶべくもありませんが(図版をクリックすれば、三國名勝圖會版(国立国会図書館デジタルコレクション)の部分拡大図が表示されます)、番所鼻は開聞岳を臨む場所として今も南さつま市坊津町の耳取峠と並び称されるスポットです。
頴娃の滝といえば先ず頭に浮かぶのは“薩藩名勝志”に図版入りで紹介されている集川の滝ですが、大野岳火山の周囲から東シナ海に向かって広がる大野岳扇状地の北側は阿多火砕流堆積物に覆われており、そこを流れる高取川、馬渡川にも複数の滝が形成されています。
未だ工事中の段階ですが、 Google My Maps®の“頴娃の拱橋”を“頴娃の拱橋と渓流”に変更し、高取川、馬渡川流域で露頭と景観を楽しめるポイントをプロットし始めています。今後も随時追加してまいります。
頴娃と知覧の境を流れる加治佐川の河口に近い大川浦にある神社です。享保元年八月十五日(1716年9月30日)に炎上し、翌年十一月廿五日(1717年12月27 日)に再建されますが、その時の棟札に“開聞宮末社釜蓋大明神”とあるそうですから、“射楯兵主神社”のほうが後付けのようです。創建年代は不詳ですが、天智天皇と大宮姫が、都より帝に従って頴娃に配されていた安東中将實重を訪ねた際、饗応のための米を蒸していた大釜の蓋が突風に運ばれてここに落ち、 これが竈神の御神体(蓋明神)として祀られたという伝承と天智帝・大宮姫伝説を照らし合わせれば、 673~706年頃でしょうか。“射楯兵主神社”と呼ばれるのは、祭神が須佐之男(素戔嗚)命とされて以降のことかと思われます。
かつての鳥居は1951年のルース台風により流失してしまいましたが、その後一部が引き揚げられ、参道脇に遺構が残されています。
画像は2015年の釜蓋神社からの初日の出(この年は、元日・二日の天候が不順でした)。手前左に見えるかわらけ投げの受け釜は、その後、社殿前の鳥居の右側に移されました。
大隅半島の錦江湾側に位置する阿多カルデラ東縁は、阿多カルデラ、姶良カルデラ、鬼界カルデラの活動に伴う噴出物に覆われていますが、基盤岩層の殆どは新第三紀中新世までに形成されており、西縁よりも古い地質を観察することもできます(花之木、宿利原といった模式地のテフラは、新規指宿火山群の噴出物と考えられています)。
地殻変動によって隆起した肝属山地を構成する南大隅閃緑花崗岩層( 1,400±110万年前[18])は、大隅半島の肝属平野の南を東北から南西方向に横切り、根占辺田で錦江湾に至ります。東と南で南大隅花崗岩層、北は鹿屋市との境を東西方向に遮る横尾岳安山岩層(147±12万年前[19])に囲まれる大根占(錦江町)から小根占(南大隅町)にかけての地域に露出する地質は、基本的に阿多カルデラ噴出物で、上の“頴娃の波蝕棚”で触れた環状岩礁の下部堆積物、(阿多)鳥浜火砕流噴出物の“鳥浜”も大根占にある地名です。その下部は溶結度が低く、水系にも恵まれていることから、浸食によって形成された急崖には規模の大きい滝が広く分布し、節理の間から伏流水が湧出する様子も観察することができます。
更に南に下って根占辺田を過ぎれば、錦江湾側を南大隅花崗岩層、大隅海峡側を日向亜層(古第三系の四万十層群)[20]に挟まれる形で阿多カルデラ噴出物に覆われる地域となりますが、日向亜層(砂岩・泥岩互層)の流動構造は、大根占の錦江湾側でも指宿/山川と根占を結ぶフェリーが根占港に入るところに祀られている津柱神社の鳥居下で確認できます[21]。昭和40(1965)年の港湾工事で大幅に削り取られてしまったとのことですが、その後の台風で社殿が損壊し、再建されて現在に至るそうですから、愚行が繰り返されることはないかと思います。
津柱大明神
小根占川の海口、北岸には、洲觜出て、松樹一帶翠を染るが如し、其南岸の觜は、北方洲觜の表に向ひ、海上へ一町許突出し、怪岸奇石多く、松樹蟠屈せり、其後は瀨脇の古城に相接す、河水は東より西北に流來り、河口にて南北の觜に礙られ、北に折て海に入る、此神社は、河口の南岸、蟠屈せる松間にありて、東面は河に臨み、西は海に對せり、河口には風帆漁船の往來あり、西方には海を隔て山川指宿等諸郷の連山一帶相續き、其連山の表に、開聞岳雲際に秀出し、風景絶勝なりとぞ、
三國名勝圖會(国立国会図書館デジタルコレクション)
瀬脇の古城は、天正二年正月十九日(1574年2月20日)、肝属氏等に攻められて落城した禰寝氏の臣、税所爲長が配されていた場所で、幕末には縄張址に臺場が築かれていました。
大根占・小根占の地質図はこちら( 地質図Navi“20万分の1地質図幅:開聞岳及び黒島の一部” ,地質調査総合センター)。H*が日向層群で、*=sが砂岩、mが泥岩、aが砂岩泥岩互層、G1が南大隅花崗岩です。
頴娃同様、根占にも阿多火砕流堆積物に形成された滝が多数存在し、寧ろこちらのほうが圧倒的景観を誇ります。
神ノ川には“神川七滝”と称される滝が連なり、こちらの画像はそのうちの神川大滝、神川小滝、長次郎滝と小便滝です。残る雨後の滝、松尾の滝、桂巻の滝は今のところ画像を確保できておらず、三國名勝圖會(国立国会図書館デジタルコレクション)にある“川路”、“尾冢谷”、“中原谷”がそれぞれ何れに対応しているのかも不明です。
ここに紹介している滝のうち長次郎滝は別称福禄寿の滝。神ノ川水系の氾濫を招く七尾の大鰻の怒りを鎮めた七福神のうち福禄寿が司ることが由来のようで、神川大滝は恵比寿、裏見の小滝は弁財天、小便滝(出たり止まったりというのが名前の由来のようです)は大黒天になぞらえられているとのことです(雨後、松尾、桂巻は各々毘沙門天、布袋、寿老人)。
下の画像は神ノ川を更に上流に辿った支流半ヶ石川の椅山滝。七滝に数えられている訳ではなく、さほどの落差もありませんが、なかなかの景観です。流れに沿って一の轟と二の轟があるとのことですが、判然としませんでした。少し下ったところには柱状節理の上部構造を確認できる瀬もあります。これが二の轟なのかもしれません。
薩藩名勝誌(鹿児島県立図書館蔵) では花瀬川が小根占川南村の境に至る所にある大瀧が“男瀧”、支流である横別府村赤瀬川の瀧が“女滝”とされているのですが、三國名勝圖會 (国立国会図書館デジタルコレクション) では花瀬川のものが“小川濕”で、赤瀬川の赤瀬濕布が“雄川濕”、その下流で合流する支流にある永良星濕布が“雌川濕”。並んで流下する様子を一望できるとされています。薩藩名勝誌も“大瀧”の条の挿絵は“小川瀑布”となっていて、雌雄の別は謎です。右の画像の“赤瀬川の滝”は地図に表示されている名称で実際には大竹ノ川にありますし、二筋見えてはいるものの、これが雄滝と雌滝なのかどうかは不明です。
ともあれ、かつての資料にある花瀬川は現在の雄川。大瀧/小川瀑は2018年の大河ドラマでオープニング・タイトル・バックにも映像が使用されていた雄川の滝です。上流に発電所の取水口があるため、節理と画像右側の伏流水の流下を鑑賞することのできる適当な水量となっています。
花瀬川の名は“漣たつこと白花に似た”る上流の瀬に由来し、柱状節理の上部構造を確認することのできる千畳敷と呼ばれる滑らかな河床が拡がっています。大竹ノ川の上流に架かる菅の渡りの河床も足に心地良い阿多火砕流堆積物です。滝ではありませんが、せっかくですからそちらの画像も。
このページでとりあげたものを含め、下のGoogle My Maps®に、指宿・頴娃では見ることのできない規模の滝を中心とする阿多カルデラ東縁の地質遺産、及びこのサイトでテーマとして採り上げている廃仏毀釈、拱橋、田ノ神サァ等に関連する史跡のうち、大根占・小根占で目にしたものをプロットしてみました。
根占がらみですが、地質遺産とは全く関係のない番外編です。
根占を本貫としていた禰寝氏は、17代重帳の代の太閤検地実施により、文禄四(1595)年に吉利(現日置市日吉町吉利)に移封となりました。徳川の世となり、島津家の薩摩藩で享保二十(1735)年に禰寝家の家督を相続した24代清香は、平重盛(小松殿)の末裔であるという根拠を見出し難い主張を展開して禰寝姓を捨て、氏を小松へと改めます[22]。吉利の園林寺は、転封に伴い根占にあった学問寺とは別に建立されたもので、廃仏毀釈により廃寺となりましたが、跡地に給黎(喜入)肝属家から養子に入り27代清穆の女婿となった29代帯刀清廉のものを含む禰寝/小松家累代の墓を始めとする遺構群が保存されています。
この他、上のGoogle My Maps®にプロットした根占の建造物のうち吉利にもあるものは鬼丸神社です。根占の鬼丸神社には、大きく毀損しているとはいえ、仁王像二対と随神像一対が残されていますが、吉利の鬼丸神社の遺構は狛犬一対、頭部の欠けた随神像と思われる石像一体と若干の石造物のみです。また、根占川南の北之口構造改善センター敷地内に遺構が保存されている實資山勝雄寺も吉利で鬼丸神社に隣接して建てられていたようですが、その痕跡を確認することはできませんでした。
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