長崎鼻(長碕觜)溶岩

赤水岳の秋葉(あっか)(どん)

浦島伝説

赤水岳から自生蘇鉄越しの長崎鼻(觜)

長崎鼻から赤水岳にかけて分布する輝石デイサイト溶岩lng)で、長崎鼻から北西に当る村石(むれし)、北東に当る赤水鼻にも同質の露出があり、何れも赤水岳火山噴出物lak)に覆われます[1]。長崎鼻は北から南に向かった流理を確認することができる溶岩流ですが、先端部近くに断局があり、そこから先では岩礁の流理構造が東西方向となっています。

成立年代は不詳で、赤水岳火山噴出物が阿多カルデラ噴出物の下位にあることから、これとさほど活動年代が離れていない後期更新世に属する中期指宿火山の噴出物と考えられています。

 

村石

嘉永四(1851)年の斉彬公指宿滞在時のご様子を記録した山田爲正日記(斉彬公史料4,鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1983に、霜月十四日(新暦126日)に、“長崎の/か濱”の吹寄貝を集めよとの御意を受け、ご家来衆が(ちょ)(みず)まで船を出した、とあります。兒ヶ水から浜までは陸路7合。距離の単位に“合”というのが釈然としませんが、利右エ門さんの墓所がある岡兒ヶ水清水から長崎鼻までの歩行距離は約2.8Kmですから 0.7里。“川尻の湊は右のかた目近く見得たり”という記載をみても、現在の九州自然歩道を辿った行程であったかと思われます。


程なく長崎か濱に至り着て干潟にたち出見るに、聞しことく沖に目をさえぎる山もなく遠干潟には五彩の真砂地を埋ミ、吹きよせたまる色々のうつせ貝錦を織出たる如し、ミなをり立て貝を拾ふ、実に興に入たり、夕日既傾き、帰路遥なればたち帰りなんといへとも、名残を惜て止ず、再三催したて丶漸々立去り、拾ひ集めたる花貝を手籠・手桶なと入れ、荷ひて兒か水に帰り、先の舟に打乗てこき出す、

山田爲正日記類嘉永四年島津斉彬下潟巡見御供日記

斉彬公史料第四巻,鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1983

皇后来(こごら)川尻とは趣が異なりますが、なかなかの景観であったようです。



 

赤水岳の秋葉(あっか)(どん)

最初の画像にある赤水岳の自生蘇鉄は、竹山のもの同様、特別天然記念物です。山頂近くに、安永六丁酉年四月(新暦177757~64日)の秋葉山供養塔があります。アメリカ独立戦争が始まって2年目です。

赤水岳の秋葉山供養塔 この地域では秋葉(あっか)(どん)は気の荒い男性神で刃物を嫌うとされています。秋葉社祭神の火之迦具(ひのかぐ)土神(つちのかみ)(古事記。日本書紀では軻遇突智(かぐつち))は、生まれる際に母親の伊邪那美に火傷を負わせ、その死因をつくってしまいますから、荒ぶる神として畏れられるのは妥当かと思われますし、刃物を忌むことも、伊邪那美の死を悲しんだ伊邪那岐に頸を刎ねられてしまうという運命に慮ったものかもしれません [2]

このため鎌などを扱う人々はお詣りを控え(ほぼ全住民でしょうけど)、祠を祀る風習も絶えていましたが、ある時、尾掛の巫女から、神様がお怒りで、このままでは恐ろしい祟りがある、というご託宣が伝えられます。幸いその頃から周辺の開発が始まり、鳥居が建てられて消防団団員による定期的な参拝も始まったことで今のところ鎮まっておられるのではないか、と山菜採りのご婦人から伺いました。

尾掛の巫女は、無足どんのご託宣を伝えられた方と同一人物でしょうか。尾掛と赤水岳は直線距離で13Kmほど離れています。恐るべき霊能力です。尾掛は1939(昭和14)年、1958(昭和33)年に大火に見舞われ、1945(昭和20)年には空襲による火災被害も発生しました。秋葉山を畏怖する心は他の土地よりも大きいのかもしれません。



 

浦島伝説

長崎鼻の龍宮神社には豊玉姫が祀られています。旧社殿は老朽化のため解体され、2012年に一般的な龍宮のイメージに寄せた陳腐な建物が新設されました。燈台に向かう途中にある亀に跨った浦島太郎の像と共に甚だしく景観を損なう異彩を放っていますが、この辺りは海幸彦の釣針を失くした山幸彦鹽土翁無目籠(まなしがたま)、もしくは鹽筒老翁の八尋の鰐(日本書紀。古事記では鹽椎神(しほつちのかみ)旡間(まなし)(かつ)()()(ぶね))で龍宮へ向かった土地の候補の一つではあるにせよ、浦島伝説の拠り所は不明で、山幸彦出立の地も塩釜どんの祀られる川尻辺りとすることが妥当かと思われます。

日本書紀雄略天皇廿二(478)年の条には、

秋七月。丹波國餘社(ヨサ)管川(ツツカ)人。水江浦島子船()。遂大龜(カメ)タリ。便(ヲトメ)化爲(ナル)。是浦島(タケリ)。相(シタガヒ)。蓬仙衆(ヒジリ)

日本書紀国立国会図書館デジタルコレクション

とあります[3]。古事談国立国会図書館デジタルコレクションに拠れば水江浦島子が故郷に戻ったのは天長二(825)年ですから、十分過ぎるほどに時間はあったでしょうけど、京都府伊根町の住人がわざわざ指宿にまで漕ぎ出して釣りをしたとは思えません。

おそらくは、山幸彦と豊玉姫の出会いの場となった150万年ほど前の龍宮と、浦島が乙姫の饗応を受ける1,500年ほど前の龍宮が混同された結果かと思われますが、豊玉姫を祭神とする社は、浦島太郎像が据えられたことで謎の建造物となってしまいました。

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[1] 長崎鼻溶岩は、荒牧重雄“鹿児島県赤水岳の地質と溶結火砕岩(地質學雜誌 第70巻第830号,日本地質学会,1964年)”、太田良平“鹿児島県指宿地方地質調査報告(地質調査所月報,Vol17 No.31966年)では“石英安山岩”とされています。赤水岳火山噴出物は太田(1966)の“村石(むれし)層”に相当します。
[2] 指宿の北に当る鹿児島市喜入町には()産霊(むすび)神社(荒神様)が祀られています。火産霊は日本書紀に見られる軻遇突智の別称で国立国会図書館デジタルコレクション)、陰陽本紀(舊事本紀巻一)では“火之産靈迦具突智”ともされています国立国会図書館デジタルコレクション)。火産霊神社の社が祀られた時期は不詳ですが、鳥居は1970324日、鳥居前の碑は193511月に奉納されたものです。

ただ、史跡として紹介するには首を傾げたくなるような状態ですので、訪問されて失望なさいませんよう。 火産霊神社

尚、指宿では秋葉山の祠/石碑は各地区ごと、あらゆるところに祀られています。このうち池田の下門(しもんかど)にあるものは“池田湖テフラ”のページの“二度山石”の項で紹介させて頂いておりますので(pop-up表示)、そちらもご参照ください。

[3] 古風土記逸文(丹後, 国立国会図書館デジタルコレクション)の水江(しま)()(三河筒川嶼子)は龜比賣の化身である五色の亀を得て、この世の300余年に相当する3年間を海中の蓬山(とこよのくに)で過ごした後に玉匣を持ち帰りますが、日本書紀同様、丹後筒川(管川)の住人です。古事談に従えば浦島子の失踪期間は347年。風土記は島子失踪から235年後の和銅六年五月甲子(71363日,續日本紀,国立国会図書館デジタルコレクション)に編纂が命じられたと考えられていますから、これはこれで辻褄を合わせづらくなってしまうのですけど。

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