咸臨丸のオランダ士官 |
琉球通寶と薩摩天保 |
たんたど石 |
弘化三年から四(1846~47)年にかけ、米英の捕鯨船が糧食・薪水の調達を目的として頻繁に薩摩藩の島嶼部に姿を見せました。砲台建設候補地の視察のため、幕命により斉彬公が来麑された後の四年六月(7月12日~8月10日)、山川と指宿にも砲台が建設されます[1]。翌七月には佐多と小根占に砲台が完成、八月には砲術館(後に上演武館に改称)が開場しました。嘉永三(1850)年には天保山、洲崎、桜島、垂水等に砲台が築造され、頴娃別府に石垣臺場が設けられたのは翌四年。阿多カルデラ噴出物が形成した波蝕棚を利用した構造物であったようです。
山田爲正の斉彬公御供日記の嘉永四(1851)年十一月二日(11月24日)の条に“五ツ半時山川御立、諸所台場御見分、九時前太平次所江御着、昼御膳等差上ル”と、午前9時から正午頃にかけての山川から指宿への道中に臺場を巡見されたことが記されています(斉彬公史料第四巻,鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1983年)。
頴娃に入られたのは2日前の十月廿九日(11月22日。十月は小の月でした)で、鹿児島県史料には“石垣御立場ニて昼飯給り”とありますが(下線はサイト管理者)、おそらくは御臺場を巡見された日ではないかと思われます。
嘉永五年に鹿児島大門口、祇園之洲の臺場も完成。斉彬公は不備があると思われる施設については撤去の上で繰り返し再建設を命じられたようで、出費の増大を懸念し外観のみを取り繕おうとした役人を厳しく譴責されたというエピソードが残っているほど海防施設の充実に熱心な方でした。
1858(安政五)年、指宿別墅に滞在されていた斉彬公は、4月29日、山川に招いた咸臨丸を訪れます。そのまま鹿児島に向い、5月2日の出航まで勝海舟等と共に来麑していた長崎海軍伝習所のオランダ士官から聞いた錦江湾防御強化策に触発されて桜島と鹿児島の間に浮かぶ神瀬の臺場建設に着手。6月27日に山川に向うまでの3日間、再び咸臨丸で鹿児島を訪れた上官が僅か2ヵ月ほどで“岩礁(rif)”が“水上堡塁(waterfort)”となりつつある様に驚嘆するほどの進捗をみせていたのですが(Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke/水田信利訳“長崎海軍伝習所の日々 - 日本滞在日記抄”,東洋文庫 26,平凡社,1964年<“Gedurende Zijn Verblijf in Japan in 1857, 1857 En 1859”, Digitalisierte Sammlungen, Staatsbibliothek zu Berlin, 1860>)、直後に公は没され、計画は頓挫してしまいました。
ところが、薩摩の海防強化の緊急性は、その4年後に一気に増すことになります。
文久2(1862)年の生麦事件です。
右三郎人數、生麥と申地名の處にて行逢ひ候に付、先供のもの下乘致し候様申候へ共、言語不通の事故、既に三郎駕籠脇の處へ乗掛候故、四五人抜連切掛候へは、異人早々乘戻し候へ共、女異人の外は不殘手負 貳人は逃退、壹人は壹貳町逃退、肩より腹へ切口より、臓腑の構成もの出、桐屋と申料理茶屋の前にて落、夫よりも貳町程逃退、落馬いたし候處を、追掛參り候もの討果し候。
神奈川奉行支配定役並 鶴太十郎覺書,
侯爵島津家編輯所“薩藩海軍史 中巻”,薩藩海軍史刊行會,1928,Google Books
“三郎”は久光公。上の図は画像クリックで部分拡大図のページを表示します。F. Beatoの撮影した当時の“生麥と申地名の處”の風景は、長崎大学附属図書館の“幕末・明治期日本古写真超高精細画像”でご覧頂けます。
薩摩藩と英国の事後交渉は幕府、朝廷の思惑もからんで難航。翌文久三年二月十九日(4月6日)、英国は幕府に対し謝罪と賠償金10万ポンド、薩摩藩には犯人の処罰と賠償金2万5千ポンドの支払いを求めることを通告します。薩摩もその頃には英国との武力衝突を想定して軍制改革と海岸防禦体制の整備を進めていました。十三日(3月30日)に“英艦來襲を慮り、我か防備を戒嚴”することを目的として定められた“應急部署”には喜入、谷山、垂水、新城と共に山川、指宿、今泉の烽火臺も含まれ、四月廿五日(6月11日)には山川成川に火薬製造所(銃薬方)を建造することが命じられています。
当時、鹿児島府内には10門以上の砲座を備えた辨天波戸、砂揚場(天保山)、祇園之洲を始めとして10ヵ所に臺場が設けられており[2]、他の海域のうち山川(7門)、指宿(5門)及び頴娃、今和泉の装備も以下のようなものでした。指宿では五人番、山川では洲崎の津口番所(番所鼻)辺りに臺場が築かれていたようです。正確な位置は不明で遺構も残されていませんが、斉彬公ご存命の頃に山川に寄港した咸臨丸で来麑したオランダ士官が“山川之臺場之場所等も委敷申”し上げたことに対し“尤もの事に存候(島津家臨時編輯所“照國公文書 巻之二”,1910年11月25日,国立国会図書館デジタルコレクション )”と公も納得されていますから、その助言が活かされていたかもしれません。
五月九日(6月24日)に幕府側の10万ポンドが支払われた後、交渉を目的として英国は軍艦7隻を薩摩に派遣します。艦隊は六月廿七日(8月11日)に錦江湾に入り、七ツ島沖に投錨しました。旗艦と藩庁との書簡のやりとりの後、警戒感をもった英国側は現在の桜島フェリー・ターミナル周辺に艦隊を移動。七月朔日(8月14日)は荒天となりましたが、キューパー(Augustus Leopold Kuper)提督は敵対行為開始の決断を下します。
脇元に停泊していた天佑丸(England)、青鷹丸(Sir George Grey)の乘頭 五代才助(五代友厚)と松木弘庵(寺島宗則)は英国艦隊が錦江湾に入った時点で有事に備えて坊津辺りに避難することを進言していたものの、これを容れられず、この2艘が白鳳丸(Contest)と共に拿捕された翌二日、英国の捕虜となりました。退去命令に従うことを潔しとしなかったことによるものとされています。
異変は午前10時には千眼寺の本営に伝えられ、暴風吹き荒れる正午には各臺場からの砲撃が開始されます。
英国側負傷者50名、死者11名(他に横濱新聞の記者2名)、薩摩側には負傷者14名、死者5名と城下の炎上という惨禍をもたらした戦闘の末、艦隊は2日後に薩摩を離れました。八日夜もしくは九日早暁から十一日の朝にかけ横浜に帰着(8月21~24日)。五代、松木も十一日の夜に釈放されています。
薩英戦争後、英国との再戦も想定した薩摩は臺場の補修と装備の補填を急ぎます。斉彬公の死去によって頓挫していた錦江湾の防禦強化策も、ここに至って日の目を見ることになりました。
戰争ノ際、此砦堡アラバ英艦沉滅スルヤ疑ヒヲ容レザルナリ - - -<中略>- - - 斯ノ如ク英艦這々ノ形状ニテ遁レタルモ、神瀬ノ砦堡落成シタラバ、一艦モ遁ルコトヲ得ザリシナラント、當時一般扼腕セリ、
市來四郎広貫“島津齊彬言行録”,岩波書店,1944年,国立国会図書館デジタルコレクション
後の祭りです。
山川で斉彬公に海防強化案を説いたオランダ士官は、市來四郎広貫の“島津齊彬言行録(岩波書店,1944年,国立国会図書館デジタルコレクション)”では“ハントウェーン”とされていますが、蒸気船“ヤパン(咸臨丸)”の乗組員の一人としてカテンディーケと共に来日し、長崎海軍伝習所で教鞭をとったファン・トロュェン海軍一等尉官(van TROJEN, B.D., luitenant ter zee 1ste klasse)です。伝習所を去るに当り、取締であった木村芥舟喜毅から笙を贈られました (カッテンディーケ/水田信利訳“長崎海軍伝習所の日々 - 日本滞在日記抄”) 。
尤も斉彬公は、松木広庵(寺島宗則)が通辞として同席したことによるものか、姓を“ハントローエン”と認識されていました。四月五日(新暦5月17日)付の江戸留守居役 早川兼彜宛書簡に、
蘭人十八人乘組、内船将一人士官四人有之、・・・<中略>・・・十八日は夕七ツ時より夜五ツ過迄、於船中寛々對話いたし候、・・・<中略>・・・臺場の場所段々申候、無據尤の事申候、船将よりは、士官第一之「ハントローエン」と申人、臺場の事等餘程委敷候、又人物も宜きよし、勝麟太郎事申聞候、
とあり、
只今にて十分に宜敷、しかし おこしまと上之瀬に、五炮位の臺場出來候へは、最早異船近寄候事は難出來、且 牛かけ之邊に、櫓臺場可然、又 城山より城下後の山へ、十二tt 位の砲十ヶ所程備候へは、申分無之と、「トローエン」申居候、半月形の臺、殊の外宜敷と申居候、高き臺場は、臺之据様第一と申候、臺之乗せ候板、只今にては不宜敷、後の方高く相成候方、筒くり出の爲宜敷、且 色色の砲備候より、一臺場に同量の砲備候方、混雑無之宜敷と申居候、
と、かなり具体的なアドバイスを受けていたことが記されています(島津家臨時編輯所“照國公文書 巻之二”,1910年11月25日,国立国会図書館デジタルコレクション) 。
カテンディーケに拠れば、斉彬公は咸臨丸を去られるに当たって近いうちに長崎を訪問することを約されたようですが、これが叶うことはありませんでした。115日後の七月十六日(新暦8月24日)、公は世を去られます。
御逝去によって立ち消えとなった斉彬公の構想は海防強化だけではありません。
ご存命中の嘉永六(1853)年七月(8月5日~9月2日)、茶釜鋳物師 西村道彌が奥御茶道 上村良節と共に薩摩に招かれます。名目は茶釜の模製ですが、西村道彌は江戸銭座の鋳銭工という前歴をもつ人物でした。斉彬公は安政二(1855)年に琉球救助の名目で“中山開寶”、“琉球大寶”の鋳造を幕府に願い出ますが、これが翌三年に却下されたことで、鋳銭技術継承者には安政四年、天保通寶の密造が命じられます[3]。
這の西村なるものは、江戸橋場鋳銭局の頭工なりしことに仍り、公 窃に予に鋳銭法伝習すへきを命せられたるを以て、職工千葉助十郎を率ひて同処に至り、数日にして其鋳法を伝授せしむ、是れ後に大に為す所あらむとするにありしなり、中にも天保通宝の鋳造に注目すへき命ありたり、
“市來四郎君自叙伝 三”,忠義公史料第七巻,鹿児島県史料,鹿児島県維新史料編さん所,1980年
毀鐘鋳砲の勅諚に従う梵鐘等の接収も、これを鋳潰してそのまま兵器とすることが目的ではなく、偽造貨幣の原料として使用し、軍備増強の原資に充当することが目的であったようですが、公の逝去に伴い計画は頓挫し、接収された仏像、仏具も寺社に返還されました。
公の意図されたところが再び藩の政策として採用されたのは、薩英戦争勃発前年の文久二(1862)年、薩摩藩が幕府から琉球の海防強化と負担軽減のための財源として琉球通寶の鋳造権を認められたことによるものです。安田轍藏なる人物の当時の勘定奉行 小栗上野介への斡旋により実現し、安田は鋳銭工十数名と共に文久三年に薩摩に入るのですが、鋳造開始までに薩摩の内情探索を目的に派遣された(おそらくは小栗の)密偵でではないかとの疑惑が浮上。私腹を肥やすための不正も確認されたため安田を銅鉱床探査を表向きの御用として屋久島に流謫し、市來四郎広貫をこれに代えた上で陣容を刷新。鋳造を開始したのは同年十一月十九日(1863年1月8日)のことです。銅地金の需要増大から相場が高騰していたこともあり、斉彬公の御遺志に沿った梵鐘、仏具の接収も改めて実施されています[4]。
当初の鑄錢所は薩英戦争時の英艦隊の砲撃により焼失しますが、英国艦隊が薩摩を去って2日後には再建が命じられました。
余か掌務中 凡三ヶ年の間、兵火(英国戦争をいふ)後 凡三十日許休業し、二百九十余万両を鋳造し、前ノ濱戦争以前の入費、或は神瀬砲台建築の費用、各所砲台修築の費用、大小砲鋳造の費用、兵燹に罹れる者の救助費等、悉く天保銭を以て支途に充てたり、故に国庫の蓄積ハ全く動すことなく、戊辰の役に至て其の軍費を補充することを得たり、
“市來四郎君自叙伝 七”,忠義公史料第七巻,鹿児島県史料,鹿児島県維新史料編さん所,1980年
薩摩藩が幕府より認められた琉球通寶の鋳造高は年間100万両で3年間。市來の“島津齊彬言行録(鑄錢法傳習、幷、試鑄御内命ノ事、付、御遺志御繼述ノ顚末,岩波書店,1944,国立国会図書館デジタルコレクション)”には、薩英戦争までにも“凡ソ三拾萬両餘丈”が鋳造されたとありますから、市來談にある“天保銭”は“琉球通寶”を含むものかと思われますが、幕府の認可を得るためのまことしやかな名目であった琉球の海防強化と負担軽減に充当されることはなかったかもしれません。
右の画像は琉球通寶のうち“當百”。側面に薩摩を示す“サ”の字の刻印が打たれています。文久二(1862)年から鋳造された100文銭ですが、流通に当たっては 124文の価値を与えられました[5]。下の画像は“半銖”。篆書で表に“琉球通寶”、裏に“半朱”とある、鑄錢所再建後に鋳造された円形方孔銭(大丸形象字)で、流通価額は 248文。通融布告は“壱朱銀壱切之場ニ弐枚”として九月十一日(10月23日)付で出されていますから(“半朱琉球通寶布令”,忠義公史料第二巻 五六六,鹿児島県史料,鹿児島県維新史料編さん所,1980年)、薩英戦争の2ヵ月ほど後には流通していたことになります。
薩摩藩鋳天保通寶にも大きく分けて二種類あり、鑄錢所再建前のものが“横郭”、再建後のものが“長郭”。古銭趣味のない管理人には判別し難いのですが、“長郭”は中央の穿の周りの郭が縦長になっているそうです。“横郭”は“通”の字の“辶(之繞)”の払い(尾)が短い“短尾通”、“長郭”は払いの長い“長尾通”[6]。“市來四郎君自叙伝 七”に“琉球通宝とせしは、藩内限り通用するの制法なりしも、天保通宝と同形同量に定めたるハ、大に慮る旨ありてなり ”、 “ 初め動植館内旧製煉所に、職工千葉助十郎を初め工人数名を使役して、試鋳せしむること数日、久光公・忠義公も屢々親しく臨視せられ、深く先公の明鑒を感話し玉へりとぞ、大久保一蔵・中山仲左衛門の二氏力を尽して、予が功を助く”とあり、藩を挙げての通貨偽造です。琉球通寶/天保通寶の鋳造原価は1枚当り37文強。“半銖”の原価率も30%程度であったとすれば、320万両強を鋳造した藩の粗利益は220万両を上回ります[7]。英国から要求された賠償金 2万5,000ポンドは、邦貨換算 6万333両1分でした。幕府勘定で処理されましたから、粗利益から経費を差し引いた贋金造りの儲けは薩摩の総取りです。
盛大ニ鑄錢スルニ至リテ、非常ノ御用途ハ勿論、御賑恤等、充分ニ届カセラレ、中ニモ前ノ濱戰争後神瀬其外各所砲臺御備付ノ大小砲或ハ軍艦御買入レ等ノ御費用モ、多クハ大錢ヲ以テ運轉シ支出シタリ、是レ偏ニ先公ノ御遠圖御深慮ニ出タリ、
市來四郎広貫“島津齊彬言行録”,岩波書店,1944年,国立国会図書館デジタルコレクション
神瀬砲臺は無事完成しました。ただ、その後の明治維新と廃藩置県で無用の長物となり、明治10(1877)年の西南戦争後、旧藩の臺場は新政府軍に閉鎖されています。
脚注の2に紹介している麑府の臺場のうちの一つ新波戸で使用されている石材は、姶良カルデラで50万年程前に発生した吉野火砕流由来の溶結凝灰岩“たんたど石”で、NHKの“ブラタモリ”#99 鹿児島編②でも紹介されています。番組で大木公彦先生にご案内頂いた石切り場は、曹洞宗福昌寺の十二景の一つに数えられていた“撻鼕々”にありました。不思議な地名ですが、
蛇之窟、附正眞軒、當寺の北、五町許、撻鼕々にあり、蛇之窟、又龍窟ともいひ、寺説を按ずるに、むかし神龍此洞窟に栖しに、石屋禪師に參して、證果を得、全身蛻脱して、風雲を生し、兩角崖を穿ち去りしといふ[8]、此洞窟高こと二間、深さ七間、横五間餘あり、洞上の山に穴あり、大小六ッ、其中殊に大なるもの徑り三尺五寸にして、半より兩岐となる、虚空を穴中より望みみるべし、穴中明朗にして、日光透り通ぜり、洞中常に水泉湧出して盈滿し洞外に流る、此洞窟は、即神龍の蹤跡なり、故に龍窟を、俗呼て蛇之穴といふ、又此地を撻鼕々とも號するは、水音常に鼓音の如く、鼕々たる故に其名を得たるとぞ、
三國名勝圖會 巻之五 ,国立国会図書館デジタルコレクション
また“催馬樂ノ城”の條(巻之七)には、“蛇窟には撻々鼕に作る、或は撻鼕々と書す、一名皷川、或は轟小路と號す”とあり、語源について、
鼓の聲の鼕々とは、祖庭事苑韻府にも出たり、鼕々は、唐音どん〱也、又古は今の鞴を踏が如くにして、樂の節奏をなしつ、蹈杼登呂許志など、古事記にあれば、轟といへるも、樂鼓の名に通へり、書紀通證に、皷とは、都曇也と解り、白孔帖曰、都-曇 答-臘、本外-夷ノ樂、都-曇ハ似ニ腰-鼓一而小、答-臘ハ即蜡鼓也、又唐書禮樂志、有ニ都曇鼓一云々、彼是併せ考るに、たんたんとうとも、つゞみ川とも、とゞろ小路ともいふは、幷に同し義にて、此催馬樂に係りて、由ある地名とはしられたり、
と、朝廷で歌舞を奏上していた隼人の遺風に由来するのではないかとしています(“たんたど”の表記を“都曇答臘”とする文献もあります。現在の地番は皷川町です)。
福昌寺跡には島津家累代の供養塔が保存されており(6代奥州家師久(薩摩守護職)/總州家氏久(大隅守護職)~28代斉彬)、跡地には山号の玉龍山に因む校名を冠した市立中・高等学校が建設されました(地番は池之上町)。
おそらくは“撻々鼕”が本来の名称で、“撻鼕々”はそれが誤って伝えられ、定着したものではないかという気がしますが(ルビが振りづらいです)、管理人が見た表記の中で最も気に入っているのは“韃靼鼕”。“韃靼の打楽器の響き”・・・信憑性はともあれ、エキゾティックで川音のリズム感が際立っています。
薩藩名勝志の図版にも描かれる大小六ヵ所の洞窟は“たんたど石”採掘によるものか殆ど失われ、唯一残っていたものも、防空壕での事故を防ぐための一連の壕口封鎖のあおりを受けたことによるものでしょうか、本来の姿を確認することはできなくなっているとのことですが、その他の福昌寺十二景[9]の中には面影を残しているものもあります。
山川津口番所等ヘ被渡 置候大砲等被遊御覧候処 火門少ク病ミ損候筒(古式ノ大砲実用ニ供スヘキモノニ非ス)有之取繕候様御沙汰被為在候付 拙者ヘ被召附候異国舩御手当掛青山善助ヘ為致吟味早速取繕申渡置候
島津豊後・調所笑左衛門宛 島津将曹書簡,島津家本“琉球外国関係文書”,東京大学史料編纂所
青山善助は荻野流大砲師範。尚、薩摩藩で最も古い砲台は天保十五/弘化元(1844)年に山川に建造された松山臺場(詳細不明)で、この年には枕崎臺場も築かれました。
大門口臺場跡は市街地化し、遺構は残っていません。新波戸と大門口の間には砲座21門を備えた辨天波戸(砲14門)と南波戸(砲12門)もありましたが、痕跡を確認することはできませんでした。辨天波戸は港湾整備計画に沿って1926(大正十二)年7月に始まった掘鑿工事により取壊されています。鹿児島港修築工事誌(内務省下關土木出張所,1935年10月,国立国会図書館デジタルコレクション)の“大正十二年當時ノ鹿児島港平面圖”に位置と形状が示されており、遮断防波堤(一丁台場)の内側で旭通を抜けた先にあったようです。この資料には臺場消滅直前の掘鑿工事の画像や工事前に作成された平面図・断面図も掲載されています。辨天波戸の南側に見える屋久島岸岐については“古ク文政年間(自二四七八 至二四九〇年ノ築造ト稱セラル、・・(中略)・・辨天臺場と同ジク藩政時代ニ最モ堅牢ニ築造セラレタルモノニシテ”とする記載があります。皇紀二四七八~九〇年は西暦では1818~30年。南波戸は薩英戦争(1863年)に備えて突貫工事で設営されたと伝わりますから、屋久島岸岐を利用した構造物であったかもしれません。
薩藩海軍史 中巻にある薩英戦争開戦時の英艦停泊位置推定図に各臺場の位置も示されています(当時は未だ遮断防波堤(一丁台場)は存在しません)。
阿多カルデラ東縁にあった根占原の砲台跡については報告書が公表されており(鹿児島県立埋蔵文化財センター“鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書 194:敷根火薬製造所跡・根占原台場跡・久慈白糖工場跡”,「かごしま近代化遺産調査事業」に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 -幕末~明治初期における「旧薩摩藩の近代化遺産」-,鹿児島県立埋蔵文化財センター,2018年3月)、根占にはこの他にも瀬脇と松崎に臺場が設けられていました。
“薩藩海軍史 中巻”には“小根占臺場”として
五門 他に川北に土居八ヶ所
右薩英戦争前合計砲十一門を備ふ 臺場外にては海濱の土居に備ふ 内一門六封度加農を垂水より移送す
とあるものの、ここに記される“小根占臺場”の装備が原のみのものか瀬脇及び域内の土居までを含むものかは判然としないところがあります(松崎は現錦江町ですから“大根占”です)。
琉球通寶
但裏ニ当百ノ文字ヲ記ス
右ハ琉球国為通融 公義ヘ御届ノ上鋳造被仰付候ニ付、御領国中之儀モ通融被仰付候条、壱枚ニ付百弐拾四文ニテ、今日ヨリ御蔵々入払ハ勿論、諸人取遣候様被仰付候、此旨支配中ヘ申渡、奥掛表方ヘモ相達、諸郷・私領ヘモ可申渡候、
正月十三日 式部 川上久美
忠義公資料 第二巻 二一五 琉球通寶通融布告,
鹿児島県史料,鹿児島県維新史料編さん所,1975年
日付は1863年3月2日。100文銭にも拘わらず価値を124文と定められたのは、当時、薩摩藩内では天保通寶が寛永通寶124文と等価であったことに準じたものです。
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