藤原林七 |
藤原林七長男 嘉八 |
橋本兄弟 |
その他 |
“岩永三五郎”のページで紹介しているものの他にも、熊本県には種山石工の手によるものを中心に、多数の拱橋が保存され、また現役で働いています。このページには、そのうちのいくつかの画像をまとめてみました。
長崎でオランダ人から円周率を学び、これを架橋技術に応用した種山石工の祖で、岩永三五郎の義父、嘉八の実父。丈八(橋本勘五郎)の祖父に当たります。文化元(1804)年の鍛冶屋三橋が八代市東洋町の東洋石匠館構内に保存されています。
嘉八は藤原林七の長男で、丈八(橋本勘五郎)の実父。林七の長女を娶った岩永三五郎とは義兄弟に当たります。右の画像は文政十二(1829)年の架橋と伝わる豊野町糸石の薩摩渡(巣林橋)。橋名は薩摩への往還に架けられたことによるもので、砥用町霊台橋 の試し橋とする説もあります。
下は美里町津留川の二俣福良渡目鑑橋と釈迦院川の小筵二俣目鑑橋。これも文政十二(1829)年の架橋で、ほとんど同じ大きさの2橋がほぼ直角に交わる“双子橋”です。
釈迦院川には年禰橋も架けられています。こちらの画像は年禰橋拱間越しの二俣福良渡目鑑橋。年禰橋は大正13(1924)年の新しい建造物で、ここで紹介している他の拱橋との接点もなさそうですから、あまりアングルには執着せず視界が植生に阻まれているものを使用した参考画像ですが、拱矢24mほどの4連の大型拱橋です。
嘉八の長男 宇助(卯助・橋本仙蔵)、次男 宇一(橋本宇市)、三男 丈八(橋本勘五郎)、四男 甚平も世に知られる名橋を残しました。最初の画像は船津峡の霊台橋。弘化二(1845)年に着工。2年後に完工した長男 宇助、三男 丈八、四男 甚平等による拱橋です。明治33(1900)年の補強工事により平坦化していましたが、昭和53~55(1978~80)年の復元修理により、当初の姿がよみがえりました。
修復工事中だったため近づくことができず画像も限られますが、右の画像は、おそらく種山石工の残した建造物の中でも最も知られた国指定重要文化財。嘉永五年十二月(1853年)に着工し、1年8ヵ月後に完工した次男 宇一、三男 丈八、四男 甚平による上益城郡山都町の通潤橋です。水路よりも高い位置にある白糸台地の灌漑施設として建設され、連通管の原理を応用した吹上口や漏水を防いだ通水管の技術に特徴があります。
左の画像は日向街道が御船町上野で八勢川を渡る“八勢の谷渡り”と呼ばれた通行の難所に安政二(1855)年に架けられた長男 卯助、四男 甚平の八勢目鑑橋。ほぼ直角に交わる八勢水路橋は、40年ほど前の文化十一(1814)年に敷設されていた灌漑用水路で、安政二年には、その水路を跨ぐ八勢小橋(東上野井手筋目鑑橋)も建設されました。周辺の石組みも見事な街道整備事業で、工事期間4ヵ月で完成したとされています。
橋本兄弟の拱橋の最後は御船町の中道橋。要石に“安政ニ(1855)年卯二月・・・石工 種山 丈八 甚作”と彫られているので、ここに加えましたが、径間3m程の小型の石橋で、“丈八”が果たして当時既に33歳の“橋本勘五郎”かどうかの確証はありません。
橋本勘五郎は後に明治政府に招聘され、東京の旧萬世橋、旧浅草橋の架橋も手がけました。墓碑は八代市東洋町の生家近くにあります。
弘化四(1847)年に山都町(旧矢部町)成君に架けられた橋ですが、詳細は不明です。9m程度の橋長に対して橋幅が広く見えるのは、交通手段の変化に対応して拡幅されたことによるもののようです。
嘉永二(1849)年の架橋。三平は岩永三五郎の弟とされています。
橋名は“重「磐」岩眼鏡橋”ですが、これが因むとされる背後の津奈木町の景勝は“重「盤」岩”(読みは何れも“ちょうはんがん”です)。出水市北部にかけて分布する後期鮮新世の地質かと思われます。その中では比較的新しい津奈木火山岩類に属する鹿目滝安山岩でしょうか(中期肥薩火山岩類)。400万年程前の地質です。
上の4橋については、山崎橋が天保二(1831)年の架橋であったことを除いて詳細が不明です。
こちらは山都町(旧矢部町)で金内川に架かる金内橋。痛恨の一葉です。
南側からの画像で一連ながらも美しい橋だと思って満足していたのですが、実はヴュー・ポイントは対岸の金内郵便局側からで、そちらからは2連の構造が明確に確認できるようです。
これを含めて取りこぼしが多く、特に“下鶴橋(橋本勘五郎・息子 弥熊(橋本源平))”、“門前川橋(理左衛門)”、“大窪橋(新助・久左衛門)”、何故か備前石工の手による“馬門橋(小坂勘五郎・茂吉)”を始めとして、今後も訪ねてみたい場所には事欠きません(熊本県県央広域本部上益城地域振興局が発行している“緑川流域 石橋虎の巻”の“石橋マップ”には、緑川水系だけで84ヵ所がプロットされています)。
現在のところ、このページ及び“岩永三五郎”のページで公開している画像にある拱橋等の所在地をプロットしたマップはこちらになりますが、機会があれば、随時コンテンツを拡充していきたいと考えています。
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