同年九月十六日、天氣晴朗寫術ニ適シタル好天氣ナリ、正午前ヨリ御親臨御手ズカラモ御試ミ遊バサレタリ、而シテ公ヲ寫シ奉リタリ、三四回ニシテ能ク寫シ得タリ、終テ當日ハ二ノ丸演武場ヘ入ラセラレ候、翌十七日、天氣晴朗、午前ヨリ御休息所御庭ニオイテ(此日ハ御上下御着服ナリ)三枚奉寫、昨日奉寫セシ數枚ト一緒ニ御熟覧、或ハ御側ニアル者ドモヘモ拜見ヲ充サレ、其内三枚ハ御意ニ適ヒ餘ハ消滅スベシト命ゼラレ、其三枚ハ山田壯右衛門ヘ御渡シ遊バサレ候、是安政四年丁巳九月十七日ノ事ナリ、
島津齊彬言行録 第一巻 “撮影術一名寫眞御開ノ事、幷、御眞影奉寫ノ事實”
岩波書店,1944年11月5日(国立国会図書館デジタルコレクション)
ということで、これを書き記した市來四郎(正右衛門)広貫が宇宿彦右衛門と共に斉彬公の御姿を撮影したのは安政四年九月十六~十七日。新暦1857年11月2~3日です。
ところが、斉彬公の肖像が日本人の手で初めて撮影された写真となったことを記念して公益社団法人 日本写真協会が1951年に制定した“写真の日”は、11月2日でもなければ九月十六日でもなく、6月1日です。維新の志士の肖像等の撮影者として名高い長崎の上野彦馬の父俊之丞が天保十二年六月朔日に薩摩を訪れ斉興公に拝謁した際に、この写真を撮影した、という虚説を鵜呑みにしたことに因るもののようですが、新暦の1841年7月18日に当るこの日、斉彬公は在府で鹿児島にはいらっしゃいません。グレコ=ローマン級の捏造です(虚説の出所は上野家ではありません)。
斉彬公初の来麑は天保六年六月廿二日(1835年7月17日)でしたが、翌年二月十八日(4月3日)には鹿児島を発って江戸に戻られます。次の薩摩入りは10年後の弘化三年七月廿五日(1846年9月15日)。外国船が頻繁に琉球に姿を現すことを懸念した幕府の命によるもので、十月十五日から十一月六日(12月3日~23日)にかけ、砲台建設地選定を目的とする巡検が実施されました。斉彬公の襲封は嘉永四(1851)年ですから先代斉興公の時代です。島津将曹(久徳)が調所広郷等に宛てた書状(島津家本“琉球外国関係文書”,東京大学史料編纂所)に
十月十五日御発駕谷山御一泊途中御放鷹アリ
十六日指宿二月田ヘ御着 夫ヨリ山川港其他海岸御巡見或ハ開門神社御参拝後指宿郷二月田ヘ御逗留御入湯十一月六日御帰城ナリ
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少将様去ル十五日御当地御発駕谷山ヨリ喜入 和泉 指宿 山川 穎娃迄 海岸諸所防禦之塲所被遊御巡見 将曹儀御供被
云々とあるものの、何れも報告がおざなりです(島津将曹は当時揖宿地頭職に就いていた家老でしたが、高崎崩れ(お由良騒動)の際に斉彬擁立派を弾圧した斉興公側近の一人で、斉彬公襲封後に罷免されました)。
“島津家國事鞅掌史料(大日本維新史料第一編ノ三,維新史料編纂事務局,1939年9月10日,国立国会図書館デジタルコレクション)”に拠れば、公の弘化三年十月(1843年12月)の巡検の日程は
十六(4
)日:谷山地頭仮屋発 - 放鷹 - 喜入領主邸泊
十七(
5)日:喜入発 - 休憩@
今和泉領主邸 - 指宿湊浦泊
十八(
6)日:湊浦発 - 頴娃鏡池 – 休憩@
瑞應院 - 頴娃地頭仮屋伯
十九(
7)日:頴娃発 - 休憩@
山川龍山寺 - 河野覺兵衛邸泊
二十(
8)日:山川発 - 休憩@正護寺 - 竹山下海岸 - 指宿湊浦泊
1843年12月8日に休息された正護寺(山川の正龍寺の末寺です)は廃仏毀釈で廃寺となりました。跡に祀られた大山神社に昭和6(1931)年、公の遺徳を偲ぶ聖駕奉迎碑が建てられています[1]。
尚古集成館に展示されている写真の斉彬公は裃を着けたお姿です(斉彬公史料第一巻,鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1981 )。言行録に“此日ハ御上下御着服ナリ”とある11月3日の撮影でしょうか[2]。御意にかなった三枚を渡された山田壯右衛門は、嘉永四(1851)年に公が指宿に滞在された折の日常を記録したものを含む御供日記(斉彬公史料第四巻,鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1983 )の筆者、爲政。2018年のNHK大河ドラマで徳井優氏が演じるまで世に知られることはなかったのではないかと思われる人物です。
指宿での御供日記の内容の一部を、“照國公足跡マップ@指宿”で紹介しています。
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