岩永三五郎

肥後の石工岩永三五郎は、薩摩藩が調所広郷の主導の下で種々の改革を進めていた天保111840)年に調所の進言で招かれ、各地で土木・治水工事に携わった技能者の一人です。指宿でも天保141843)年から潟口の船溜り設営を含む二反田川河口改修・五間川整備工事を手掛けており、151844)年には宮ヶ浜の湊川橋も竣工しました。交通手段の変化に伴い、現在は画像のような形状となっていますが、かつては中央部が弧を描き、“()()(ばし)”と呼ばれていたようです。二反田川の二反田川橋(拱橋)、五間川の五間川橋(桁橋)も三五郎によるものですが、何れも架け替えられ、残されていません。このうち二反田川橋は、島津斉彬の残した指宿八景御詠のうち鼓橋夕照に詠まれたと考えられる橋です。

“鹿児島県維新前土木史(鹿児島縣土木課,1934)”に拠れば、旧二月田橋は径間24尺(7.27m)、拱矢9尺(2.73m)。湊川橋は同各々52尺(15.76m)、20尺(6.06m)ですから、拱矢比はほぼ等しいものの、大きさは約2倍です。

岩永三五郎の宮ヶ浜湊川橋

 

指宿は河川の規模が小さいために橋梁も全て小型のものながら、鹿児島市の甲突川は川幅が広く、4連、5連の拱橋が岩永三五郎によって築かれていました。8・6水害(平成51993)年8月豪雨)による流出を免れた3橋は、浜町/清水町の石橋記念公園に移設・保存されています。甲突川五橋[1]と呼ばれたこれらの橋のうち、流出してしまった武之橋新上(しんかん)のかつての姿は、石橋記念公園のサイトでご覧いただけます。この他にも鹿児島市には平川町で芝野五位野西線が五位野川を渡るところに架けられている園田橋が残されており、三五郎による鹿児島での最後の架橋事業とされる1連の()(がしら)太鼓橋[2]もありましたが、こちらは道路拡幅工事に伴い撤去されてしまいました。 岩永三五郎の甲突川五橋のうち流失を免れた西田橋・高麗橋・玉江橋


観光スポットとして人気の高い霧島市の霧島神宮にも三五郎ゆかりの石造物が残されています。本殿前の()(みず)()は、岩永三五郎作、もしくは奉納と伝えられるもの。社務所横の客殿には、台座に“奉納 岩永三五郎”とある手水鉢が置かれています。こちらは天保131842)年に納められたようです。 霧島神社に残される岩永三五郎ゆかりの遺構(手水舎・手水鉢台座)


 

嘉永元(1849)年に調所広郷が自裁。ほどなく、調所の下で薩摩藩の天保の改革を担った海老原正凞も役を解かれます。

岩永三五郎は、調所自裁の翌年に薩摩を離れました。下の画像は同年旧暦8月に現薩摩川内市の八間川に架けられた江之口橋。薩摩での最後の仕事です。 岩永三五郎の薩摩川内市江之口橋





[1] 土木史研究 17巻,土木学会,199765

吉原 進・迯目 英正・奥田 朗“橋梁技術史上における甲突川五石橋の位置づけ

迯目 英正・長谷場 良二・奥田 朗・吉原 進“我が国の石造アーチ橋の発展と岩永三五郎,阿蘇鉄矢の事跡

内山 一則・奥田 朗・吉原 進“甲突川五石橋の建設と背景

長谷場 良二・奥田 朗・吉原 進“甲突川五石橋の取り扱いに関する歴史的経緯

牟田神 宗征・奥田 朗・吉原 進“甲突川の治水史・流域特性の変化と五石橋

吉村 伸一“甲突川5大石橋群に見る治水システム

北畠 清仁“甲突川の水理と五大石橋の現地保存

知識 博美・奥田 朗・牟田神 宗征“8.6水害に対する甲突川の治水対策及び石橋保存対策

上野 敏孝“石橋保存の治水面からの考察

長谷場 良二・関 晃・吉原 進“西田橋の築造技法と改変状況

伊東 孝“鹿児島甲突川の五大石橋論争:過去・現在・未来

向原 祥隆“甲突川最後の五大石橋, 西田橋解体の政策決定の経緯

[2] 原口 泉“河頭太鼓橋の歴史的意義と岩永三五郎”,土木史研究 17巻,土木学会,199765

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