淸泉寺跡(鹿児島市) |
島津大和久章は垂水島津家の分家に当る鹿屋新城の領主でした。宗家19代光久の勘気を蒙ったために河邊(川辺)の忠徳山寶福寺での蟄居を命じられ、5年の後、遠島の沙汰を申し付けられたことで鹿児島に上って谿山(谷山)の如意山淸泉寺に入ります。ところが、遅れて後を追った下僕の三次が彼を伴っていた新納久親に斬りかかって果てたという変事が伝えられ、自らの指金と疑われることを潔しとしないという理由によるものでしょうか、警護の衆と斬り結んで壹岐幸伯に討たれました[1]。享年30。正保二年十二月十一日(1646年1月27日)、5代綱吉が征夷大将軍を継いで20日ほど後のことです。
“爲人強悍、勇力絶倫”であった久章は、その後淸泉寺に祀られ、“威靈を仰ぎ、参詣するもの多しとかや(三國名勝圖會,国立国会図書館デジタルコレクション)”と記されるほどに霊験あらたかな疱瘡治癒を叶えてくださる神様となりました。
さて下って明和九(1772)年。薩摩は疱瘡の大流行に悩まされます。揖宿もその例に漏れず、今和泉郷では嵓本(岩本)村が如意山淸泉寺に願って“疱瘡神さぁ”を勧進し、島津大和久章に因む大和大明神として石祠を祀りました。ボストン茶会事件の前年です。
その時の祠には笠に医師秋山尚政による銘が刻まれていたようですが、喉元過ぎればの例え通り、顧みられることがなくなったことで碑文の判読も困難となり、文化六年六月(1809年7月13日~8月10日)に新たな祠が納められ、藩校造士館助教 宮下希賢銘による、その経緯を記した石碑が建てられています。
当初祀られた場所は明らかではありませんが、遺構は豊玉媛神社に残されています。左の画像にある石碑(文化六年の重建岩本村大和大明神石祠記)でも判読は難しくなりつつあるものの、銘文は三國名勝圖會(国立国会図書館デジタルコレクション)に紹介されています。
鹿児島市の淸泉寺跡には三回忌の正保四年十二月中旬一日(1648年1月5日)に祀られた島津大和久章の供養塔が残されています。
淸泉寺は、直線距離で3Kmほど北にあった補陀山慈眼寺と同じく百済の日羅[2] が開基とされていますが、 創設の時期は定かではありません。左の画像にある磨崖仏の阿弥陀如来は御本尊で、日羅の作と伝えられています。左奥に見える小型の磨崖仏には、確認できるものとしては県内最古の建長三(1251~52)年の紀年銘があります。北条時宗が生まれた年です。
淸泉寺は一時廃れますが、字堂覺卍和尚によって應永年間(1394~1427年)に再興されました。下左の画像の奥にある石塔には“當寺開山字堂卍●●”とあり(画像クリックで拡大表示されます)、“覺”の字を欠くものの、覺卍の号である“字堂”を確認できますから、中興開山を供養するものと考えられます。一風変わった名の由来については、三國名勝圖會の“薩州寶福寺沙門覺卍傳(河邉郡)”に、
釋覺卍、字堂ト號ス、姓ハ藤、薩州ノ人、母氏懐娠ノ時、胸ニ卍ノ字相ヲ現スニ因テ以テ名ト爲ス
三國名勝圖會,国立国会図書館デジタルコレクション
とあります(淸泉寺は、寶福寺の末寺でした)。
寺院そのものは失われてしまいましたが、遺構は比較的保存状態の良い、廃仏毀釈の影響が軽微であったと思われる史跡です。信仰を集めていたことで、積極的な破壊を免れたものでしょうか。
下の画像は阿吽の金剛力士像。在家菩薩・妙有大姉像と障子川の支流を隔てて向かい側にあるのですが、他の遺構とはアクセスのルートが異なります。これについては“鹿児島よかもん再発見!”様のサイト(https://kagoshimayokamon.com)の清泉寺のページ(清泉寺跡:聖徳太子が師事した僧が彫った1500年前の磨崖仏がこんなところに! )に詳しい案内がありますので、そちらを参考になさってください。
日羅には聖徳太子との逸話も残されています(聖徳太子傳暦 一巻 巻上,国立国会図書館デジタルコレクション )。
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