古期南薩火山岩類(鬼門平(おんかどびら)

金銀鉱山跡

産金業の興亡

指宿の金鉱山跡ギャラリー

池田石・大谷(おおたに)

(おろ)

鬼門平断層崖露頭 Title_鬼門平

鬼門平の鬼の覗き窓 鬼門平のキレット越しの池田湖と開聞岳 鬼門平は標高306.9m 510~670万年前の角閃石安山岩の岩体で、川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅 - 鹿児島(15)第100号)”で採用された試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有量は、こちらからpop-up表示される図に示す比率となっています。


鬼門平の鬼の覗き窓 登山道は、池田から小牧に抜ける山の西側を走る車道の途中(N31.27194E130.56005辺り)にあり、そこから10分ほど登れば尾根道になります。“鬼の抜け道”を過ぎ、“鬼の覗き窓”の上を回り込む“鬼の抜け穴”をくぐって頂上を目指す、直線距離で720m程の行程です。かつては金も採掘されていた地域で、所々にかなり深い亀裂や陥没もありますので、足許には充分にお気を付けください。

池田火山(池田湖)のページにある池田湖の画像は、鬼門平頂上近くからの眺望です。

スポットは“鬼”尽くしですが、昔は天狗伝説のある山でした。

又天狗の栖止する處なりとて、夜中或は笙笛の聲ありといふ、

三國名勝圖會 巻之二十一 十六 鬼門の嶽

国立国会図書館デジタルコレクション

 

かつて鬼門平はMATUMOTO1943)が想定した阿多カルデラ の西縁とされていました。

The four giganitic caldera volcanoes of Kyusyu MATUMOTO, Tadaiti The four giganitic caldera volcanoes of Kyu^shu^”,

日本地質學地理學輯報 第十九巻 特輯號,學術研究會議,194310

Tsuji-ga-dake”は南大隅町の根占富士、辻岳です。

右の図は産業技術総合研究所 地質調査総合センター“大規模噴火データベース”の“阿多カルデラ”のページにある“MATUMOTOの”阿多カルデラの位置情報を地理院タイルにプロットしたものですが、その範囲には疑問がもたれています。

池田火山の噴出物に覆われているため地表での露出はないものの、地熱開発を目的とするボーリング調査によって山川の西部を構成する台地の地下には古期指宿火山群由来の山川層が拡がっていることが確認されており、一部は浮遊性有孔虫や貝等の海棲生物の化石を含む海成凝灰質泥岩です。この地層はボーリング調査の北端となった池田湖北岸の池田字立割3537にもあり、阿多火砕流由来の凝灰岩層に覆われています[1-柱状図]。鬼門平断層崖から直線距離で700m足らずのところです(N31.24969;E130.55925)。つまり、MATUMOTOの阿多カルデラが活動を開始した時には既に鬼門平断層崖は存在し、その下まで海が侵入していたことになります[2]

阿多カルデラ火砕流堆積物の露頭が壁面に確認されることもあり、鬼門平断層崖は錦江湾を形成した鹿児島地溝で発生した火山性陥没の縁とする説が現在では有力ですが、立割で山川層の上位にある阿多火砕流由来の凝灰岩層が確認されているのは地下292.4~360.4m。断層崖の露頭との比高が大きく異なり、池田断層[1]は阿多火砕流発生後にも活動していたようです。


この断層は、共に古期指宿火山群に属する高江山の東側から矢筈岳の南側にかけ、指宿市の北側で北東-南西方向に薩摩半島を横切っています。その北側には、分水嶺を構成する三巣山(古期南薩火山岩類)、吉見山、尾巡山、種尾山(何れも新期南薩火山岩類)といった山地の尾根の間隙を阿多カルデラ噴出物At)が埋める、指宿市のものとは異質の地形が広がっており、鬼門平(おんかどびら)断層崖に沿って指宿側に分布しているのも古期南薩火山岩類です。

上の地質図が示す断層崖北部に分布する古期南薩火山岩類は溶岩類(Nol)。これに対し断層崖中部で観察できるのは左の地質図に示す火砕岩類(Nop)です。

下の地質図は溶岩類と火砕岩類双方の露頭を確認できる断層崖南部。左の画像で池田湖の北側(画像右上)から続く断層崖は、西側(画像左下)で入野溶岩lir)の台地地形に遮られますが、両者の間に宇井(1967[3]にある“南落ちの東西断層”が存在しているか否かは確認されていないようです。

開聞岳からの鬼門平断層崖・入野溶岩台地と池田湖越しの桜島


 

下の画像は開聞十町と(おろん)(くっ)[4]の間で断層崖南部に露出する愛宕岩。古期南薩火山岩類のうちの火砕岩類なのですが、この露頭だけは安山岩ではなくデイサイトです。ここから花瀬に飛んだ天狗様が舞い降りた足跡が開聞山麓にある“(かん)(わたい)の石”に残っているらしいのですが、未だに探し当てることができていません。

断層崖の景観は、新春に催される“いぶすき菜の花マラソン”のコースからもお楽しみ頂けます(下の画像をクリックすれば pop-up表示されます)。

愛宕岩 Title_愛宕岩
愛宕岩

 

金銀鉱山跡

大谷金山跡の石塔と山神板碑 上の地質図でも数箇所に鉱山の地図記号がプロットされていますが、指宿の古期南薩火山岩類には強い熱水変質を受けて石英脈の発達したものがあり、鬼門平断層崖周辺は小規模な金銀鉱山が点在していた地域です[5]。戦時中の国策変更に翻弄され、湧水処理も困難となったことで現在は全て廃坑となってしまいましたが、この辺りは指宿の産業遺産帯でもあります[6] (第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての我が国の金鉱業界をめぐる目まぐるしい環境の変化については、“産金業の興亡”のページをご参照ください)。殆どは明治期以降に稼行したものですが、 大谷金山坑道跡 大谷の銀については藩政時代の記録も残されています。


銀山有所之事

一 今和泉池田村之内大谷 右銀気有之、宝暦六年二月試吹被仰付、正銀三匁三分吹調、宝暦十年辰八月山床御取揚被仰付候

薩藩政要録 六 七十五鹿児島県立図書館蔵



もっとも、藩政時代の弘化元(1844)年に発見と同時に開始された採掘は、3年後には技術的な障害により休止。本格的な再開は、40年後の明治201887)年に新鉱脈が発見されたことに伴う三井金属鉱業㈱の鉱業権取得によるものでした。

 

下の2葉も大谷鉱山跡に残る産業遺産。画像クリックで他の金鉱山跡の画像をまとめたページにジャンプしますが、詳細を把握しきれておらず、依然情報を収集中です。

大谷金山遺構 大谷金山遺構

また、“金鉱山跡ギャラリー”のページの画像に収めてはいませんが、河内山金山については、20183月に鹿児島県立埋蔵文化センターによる発掘調査報告書(鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(196):主要地方道指宿鹿児島インター線改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(指宿市池田))がまとめられており、以下の論文が収録されています(第4章 研究)。

井澤英二“河内山鉱山の地質鉱床について

大木公彦“指宿市河内山鉱山跡の遺構

新田栄治“河内山鉱山と鹿児島の金鉱開発

 

 

池田石・大谷(おおたに)

池田石は大谷鉱山の鉱脈の母岩となっている軟質の凝灰岩で、鉱化作用により赤味を帯びていることから“薩摩錦紅石”とも呼ばれていました。池田石採石場跡の近くに、より硬質の大谷石の採石場跡も残っており、かつて両者は明確に区別されていたと考えられるものの、地質関連の文献での取扱いは曖昧です。

指宿市誌(指宿市役所総務課市誌編さん室,1985年)には池田石について“採石場一帯では岩相変化が大きいが、全体的には淡黄色で軽石・安山岩片・花崗岩片を含み、山川石と全く同一”との記載がありますが、“淡黄色”の石材が“薩摩錦紅石”と称される筈はありません。

池田石・大谷石採石場跡

無瀬浜に広範な露頭のある山川石(福元火砕岩類)の生成時期については、阿多カルデラ噴火以前とする説と、以降とする説があり、“以前”とする成尾英仁・小林哲夫“鹿児島県指宿地域の火山活動史:阿多火砕流以降について:火山および火山岩(日本地質学会学術大会講演要旨 901983325日)”は“特有の黄色をした同一岩相、鉱物組合せの火砕流堆積物が北西部の鬼門平断層崖沿いにも広く分布することがわかった。そして少なくとも断層崖の一部を構成する小浜溶岩に覆われていることから阿多火砕流以前に噴出したものである”としています。“特有の黄色をした”石材は“薩摩錦紅石”ではなく大谷石を指す可能性が高いのではないかと考えられるものの、指宿市誌同様、両者の組成分析等の根拠は示されていません。

池田石採石場周辺に残されている大谷石ではないかと思われる遺構には、上の“金銀鉱山跡”の項にある“大谷金鉱山跡の石塔(台座部分はコンクリートで補修されています)”と石塔の右手前に見える正面に“山神”と彫られた駒形の石板の他にも、“菅山の方柱塔”があるのですが、こちらは案内板に“山川石が使われてい”るとあり、岩石組成が詳細に分析されることなく、曖昧に混同されているのではないかといった印象があります。今後の検討課題です。

池田では地層年代がより新しい(5,600年ほど前の池田火砕流堆積物)の二度山石も採石されていました。その採石場の近くにある秋葉社にも、二度山石(角閃石石英流紋岩軽石)の岩体の上に、おそらくは大谷石と思われる石碑が祀られています。

 

菅山の方柱板碑 菅山の方柱塔:紀年銘は“龍渓玄●ノ爲ニ天文十八己酉酉十一月十五日15491213日)。フランシスコ・ザヴィエルがヤジロー(Anjiro)を伴って坊津に来航した年です。伝承では、この土地の領主であった菅山家の次男が出水で出家した後にこの地に戻り、法華経69,300 字の石板を刻み続けたとのことで、石柱塔を探していた時にたまたま御在宅で案内して頂いた吉元様は、菅山家の分家の流れであるとのことでした。龍渓とあるところをみると臨済宗でしょうか。正面には 悟りを示す円相の中に“心”の文字があります。 宮ヶ浜の方柱板碑

伝承が正しければ、他に69,299の石柱塔が残っている筈ですけど・・・。

 

菅山の方柱板碑に酷似した遺構は宮ヶ浜にもあり、こちらも個人のお宅の敷地内に祀られています。天文十年から十四年十一月(1541~45年)にかけて宮ヶ浜で法華経を広めたことが記録されていますが、円相に“心”とある意匠は同じですから、菅山家のものとは別の、若干早い時期の布教活動かと思われます。

ご主人のお話では山川石の碑ということでしたが・・・、いかがでしょう。


 

池田石採石場跡の動画はこちら。周辺には、狭い地域に多数の産業遺産が分布しており、“指宿・頴娃ジオガイド・マップ”に全てをプロットすることには煩わしさがあるため、別途、“池田石採石場跡周辺マップ”を作成してみました。

池田石、大谷石については、金銀鉱山跡と共に追加情報を収集中です。

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[1] 新エネルギー総合開発機構“地熱開発促進調査報告書 No.11 池田湖周辺地域”(山川層については、第Ⅱ-2-11 N58-ID-2 地質柱状図(7-3等),19863月。池田断層は、鬼門平起震断層として、今後30年以内の将来活動確率約2%の活断層に分類されています(産業技術総合研究所活断層データベース)。
[2] 吉村雄三郎・伊藤寿恒“鹿児島県山川町伏目地区における地熱探査とその開発”,資源地質 445),1994
[3] 宇井忠英“鹿児島県指宿(いぶすき)地方の地質”,地質学雑誌 第73巻 第10号,196710
[4] (おろ)”は、馬を囲い込むための土塁で、かつてはかなり大規模な放牧地が設営されていたであろうことを偲ばせる地名です。鹿児島市喜入一倉町の鹿児島市観光農業公園には、牧の苙跡が良好な状態で保存されています(鹿児島市指定文化財)。喜入牧は、入來の長野牧、鹿籠の鹿籠牧、知覧の知覧牧同様、領主の私牧で、小松(禰寝)氏の女婿となった給黎肝属氏の小松帯刀も、萬延元年四月八日(1860528日)に串目立(馬追)を見物したことを日記に残しています(“小松帯刀日記”,鹿児島県史料集,鹿児島県史料刊行会,1981)。尚、私牧のうち鹿籠牧、知覧牧は、藩営の頴娃牧、揖宿牧、山川牧、今和泉牧が属する頴娃・頴娃野の串目立に隔年交替で参加していました(中村初枝等編“鹿児島縣畜産史”,九州聯合第二回馬匹第一回畜産共進会協賛会,1913国立国会図書館デジタルコレクション)。画像のうち上の2葉は土塁からの中苙、下の2葉は小苙で、何れも201932日に撮影したものです。 喜入牧の苙跡
大隅半島側の垂水市(くぬぎ)(ばる)には、苙に見立てた穴を砂浜に掘り、馬(()(がしら))と、馬を苙から追い立てる侍((おや)(がしら))に分かれて地区の子供達が競う“(おろ)()め”という旧暦の端午の節句の行事が伝わっています。穴の一ヵ所に設けられる出入口が苙口です(喜入牧の苙跡の画像では土塁が切れている部分)。喜入や指宿、頴娃にも“(おろ)(むま)()”という旧暦五月五日、もしくは七月十五日に行われる同様の行事があったようですが、こちらは途絶えてしまいました。
下の画像は2019年の苙込めの様子。子頭は苙から引き出されないよう手段を選ばず抵抗しますが、親頭は手出しをしないというのが決まりです。昔は下帯をつけず、親頭は子頭の耳をつかんで引き回していたという、男の子だけの行事でした。画像をクリックすれば、動画をご覧いただけます。
苙込め
[5] 宇井(1967) は、鬼門平断層崖沿いの熱水変質を受けた火山岩・堆積岩を一括して“苙口(おろくち)層”と称しており、ここでいう“古期南薩火山岩類”にほぼ一致します。
[6] 古宇田亮一“池田湖カルデラ西方金銀鉱床群”,地質ニュース 410号,198810月;浦島幸世・池田冨男“布計,大口,菱刈,黒仁田,花籠各鉱床の氷長石のK-Ar年代”,鉱山地質 371987

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