上野溶岩

周辺の史跡①:鳥越堀切

  余談:島津斉彬の利水事業(堀井碑)

           指宿八景・山川八景

周辺の史跡②:上野神社供養塔群と煙草神社

上野溶岩は鍋島岳の東側で山川利永、西側で開聞上野の溶岩台地地形を構成する斜方/単斜輝石デイサイト溶岩で、上野側では県道241号(大山開聞)線で露頭を確認することができます。

上野溶岩露頭_1 池田湖火山灰(Ika)、池田火砕流堆積物Ikp)に覆われていること以外に層序関係は確認されていませんが、やや苦鉄質であることを除けば特徴は池底溶岩(流紋岩溶岩)に類似であることにより、清見岳溶岩ドームの形成よりも新しい、池底溶岩とほぼ同時期(5~3万年前)の指宿火山(新規指宿火山群)の活動による噴出物と考えられています。

 

上野溶岩露頭_2

地名は、天智帝の侍臣、上野少将左衛門大夫藤原豐若麿が館を設けられていたことに因みます。開聞山古事縁起(神道大系 神社編 四十五,神道大系編纂会,1987)には“舒明天皇御子有馬ママ皇子四代後胤”とありますが、有皇子は孝徳天皇の御子のはずで、舒明天皇十二(640)年のお生まれ。19歳の有間皇子を謀叛の廉で処刑する舒明天皇第二皇子の従兄天智天皇の生年は推古天皇卅四(626)年ですから、どうも眉唾です。


 

周辺の史跡①:鳥越堀切

上野から池田湖沿いに北西方向に分布する上野溶岩(lun)が池田湖火山灰(Ika)、池田火砕流堆積物(Ikp)に覆われていない箇所をを穿った鳥越堀切は、閉塞カルデラ湖であった池田湖を開放湖とした疎水工事の水路跡です。安政四(1857)年、仙田地域の灌漑と池田湖北部低地の開墾を目的として島津斉彬により発案された、とも伝えられていますが[1]、斉彬は翌1858年に死去。明治維新を挟んだ混乱もあり、本格的な工事が実現するのは明治五(1872)年。県令大山綱良によるもので、目的には天璋院篤姫がNHK大河ドラマで取り上げられたことで知られるに至った今和泉の困窮士族救済も加えられました。完工は1876年。堀切下に県令の功績に謝する決湖碑が残されています(下の画像をクリックして頂ければ碑文が表示されます)[2]

鳥越堀切と決湖碑

池田湖北部の池崎は、疎水開通後に開田された地域です。

YOSHIMURA1938[3]には、疏水により湖面が30m低下したとありますが、その根拠は示されていません。水位が現在よりも30m高い位置にあったとすれば池崎地域だけではなく、小浜の馬頭観音10m下辺りまでが水面下にあったことになりますから信憑性のある記載とは思えません。決湖碑には、開通により湖水面が一丈(3.03m)ばかり低下した旨が記されており[4]1909年には堀切水路床、1955年には仙田水門床の掘下げ工事も実施されました(各々6≅1.8m0.9m)。

中尾(1987[5]は、現地の汀線痕、湖岸段丘、及び古老への聴取り調査等に基き、ポンプ揚水開始後と鳥越堀切開設前の水面差を7.5mと想定しています。


 

余談:島津斉彬の利水事業

安政の堀井碑と昭和の堀井碑 長井温泉[6]にあった島津家の指宿別墅は、天保二(1831)年、27代斉興によって()月田(がつでん)に移されました。当時の間取りは山田爲正日記類の嘉永四年島津斉彬下潟巡見御供日記(斉彬公史料第四巻,鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1983年)”にある挿絵に残されています。

左はお供日記の図で“女中部屋”とある辺りから左下方向を写した画像となります。石碑二基は、碑文と向きよりみて別墅時代には現在の位置にはなかったのではないでしょうか(右側の小振りのものには“御湯殿口 従是内御用外不可入”とあります。左の碑は“関係者外立入禁止”の細則を記したもので、右の碑よりも湯殿から離れた場所にあったかと思われます。碑文の内容は松﨑大嗣“市指定史跡「殿様湯跡」の構造と周辺環境令和3・4年度博物館年報・紀要 第15,指宿市考古博物館 時遊館COCCOはしむれ,20233月,全国遺跡報告総覧)”に紹介されている画像をご参照ください。

28代斉彬は、嘉永四(1851)年に島津家当主となり、二月田別墅には、その翌年頃には田良の黑岩家によって二俣山からの約5.5Km(五十町餘)の距離を石樋でつなぐ水道が設けらたようですが、安政五(1858)年の滞在時に大旱魃を経験。農民の疲弊を憂い、97本の井戸を穿つことを郡奉行見習に命じて、指宿の利水環境を整備します。

安政の堀井碑と昭和の堀井碑 当時の井戸は明治・大正期の耕地整理に伴い埋め戻されてしまいましたが、島津家別墅跡(殿様湯)に遺構が残されています。工事翌(1859)年の旧四月には、功績を記念した堀井碑も建立されました。画像の中央が、当時の堀井碑。劣化が進んだことにより、昭和121937)年、碑文を再刻すると共に、大正111922)年の東郷平八郎元帥の添書が加えられた手前のものが建てられました。

安政の工事の際に井戸の設営を指揮し、堀井碑にも名前を残す郡奉行見習は東郷吉左衛門実友。元帥の実父です。安政五年は日米通商条約が締結された年で、三月、斉彬は山川に咸臨丸を迎えに出向いていますが、その年の七月十六日(新暦824日)が命日となりました。

 

昭和の堀井碑には、背面をまたぐ形で島津斉彬の指宿八景八首が刻まれています。

照國公指宿八景御詠が刻まれた昭和の堀井碑背面 照國公指宿八景御詠


膳所(ゼゼ)いりまへんねん”と落とす上方噺や、その枕にも使われる太田蜀山人の“乗せた(瀬田)から  先(唐崎)あわず(粟津)かただ(堅田)の駕籠 ひら (比良) 石山 (石山)や  走(矢橋)らせてみい(三井)”でお馴染みの近江八景 石山秋月粟津晴嵐唐崎夜雨矢橋歸帆堅田落雁三井晩鐘比良暮雪瀬田夕照や金沢八景瀬戸秋月州崎晴嵐小泉夜雨乙艫歸帆平瀉落雁稱名晩鐘内川暮雪野島夕照等同様、中国の伝統的な画題である瀟湘八景(洞庭秋月、山市晴嵐、瀟湘夜雨、遠浦歸帆、平沙落雁、煙寺晩鐘、江天暮雪、漁村夕照型ですが、山川にも山川八景があり、こちらは、洲崎秋月鳴川瀑布、渡村群居、湊中群船、前路行旅、正龍暁鐘、邊多暮雪、山陰漁火と、かなり変則的です[7]
斉彬公御詠ではありませんが、“よみ人も闕のならず、其ふしもいとくたちたれと”として麑藩名勝考(白尾國柱,鹿児島県維新資料編さん所,1982年)に紹介されている山川八景8首です。洲崎(津口番所・番所鼻)と渡(五人番)は、薩摩藩の臺場が設けられていた場所でもあります。  山川八景

指宿八景御詠、嘉永四(1851)年の山田爲政御供日記(斉彬公史料4,鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1983)等に基く“照國公足跡マップ@指宿”を作成中ですが、いろいろと不確実な部分がありますので、ご意見をお寄せ頂ければ幸いです。

詠まれた松を特定しがたい“孤松夜雨”は諦めかけていますが、“鼓橋夕照”でも苦戦しています。“鹿児島県維新前土木史(鹿児島縣土木課, 1934年)”に拠れば、鹿児島市の五石橋架橋で知られる肥後の岩永三五郎が二反田川(大字十町字宮)に架けた橋(二月田橋)は、径間24尺(7.27m)、拱矢9尺(2.73m)、幅113寸(3.42m)の缺圓拱(櫛型)とあり、“鼓の橋”であった可能性が高いと考えられますが、1934年にコンクリート橋に架け替えられました。国道226号線に架かる現在の第一二月田橋の場所かとは思われるものの、既に昔日の面影が失われていることに加え、その辺りの字は“宮”ではありません[8]。マップは今のところ、同じく岩永三五郎による、宮ヶ浜の湊川橋に代替させる形としています。指宿に残る拱橋(アーチ型橋梁)については、別途ページを設けました。

こちらは20189月に作成したパンフレット。揖宿八景御詠ゆかりのスポットを周遊する JR指宿駅~宮ヶ浜捍海隄往復のサイクリング・コースも考えてみましたので、Google My Maps®のページもご参照ください。



 

周辺の史跡②:上野神社供養塔群と煙草神社

上野城(岩田ヵ城)址と伝わる場所にある上野神社には城主夫妻を祀ると伝わる二基の宝塔(うえのどん)を中心に、南朝年号の正平( 1346~)から慶長(~1615年)までの紀年銘を確認できる多数の石造物が保存されています。上野氏は上野少将の末裔かとも思われますが、藤原氏ではなく平氏の末とする文書も存在するようです。少し離れた位置にある観音堂には永禄年間(1558~70年)の六地蔵塔(むっどん)も残されています。 上野神社供養塔群

上野神社に合祀されている煙草神社建設記念碑 仙田農村公園の煙草神祠  
上野煙草耕作組合は昭和21927)年に日置の大岩戸神社から煙草神を勧進したようで、祠はありませんが、上野神社にはその記念碑も合祀されています。


上野神社ではありませんが、旧開聞町の煙草神社の遺構は仙田農村公園にも保存されています。大正131924)年に大規模な害虫被害が発生したことで、仙田村が翌年大岩戸神社から勧進した伏木丸神社。当初建立されていた社が度重なる台風で倒壊したことにより、昭和141939)年に右の画像の石祠が納められました。

旧指宿市の煙草神社については、“田良の豪商”のページの“指宿煙草の濱田金右衛門”の項にまとめました。

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[1] 國光社編纂の“照国公感舊録(1899328日,鹿児島県立図書館蔵)”には、池を拓くと池神の祟りがあるという言い伝えに躊躇する藩吏を“神は人に惠を與ふるを以てこそ崇むるなり ・・・<中略>・・・ 俗説の如きは所謂妖言なり 妖言に惑ひ人益を起こさゞるは愚と謂ふべきなり 宜しく民益を起すの旨を告祭して速に着手すべし”と説いて納得させ、“後數年にして成功を遂け爲めに田地數百町歩を開き得たり”とあります。お話としては面白いのですが、贔屓の引倒しです。
“島津齊彬言行録”では、“池神云々”の件は同様ですが、最後は以下の文章となっています。
宜シク民益ヲ起スノ趣ヲ神告ゲ、速カ着手スベシトノ御沙汰テ、夫ヨリ灌漑着手セリト、然ル其工半途シテ御逝去遊サレ、中絶セシヲ、大山綱良、御遺志ヲ繼述シ、其功ヲ終リ、南郷トモ水利ノ辨ヲ得タル、實御英斷外ナラザルナリ

巻之四“今和泉郷池田村ノ池水田地用水灌漑御着手事”,岩波書店,1944115

国立国会図書館デジタルコレクション

[2] 旧今和泉村は明治221889)年41日に池田湖の水利権を取得し、その後の開田地域の地権の分散に伴い、20年後に旧頴娃村に水利権を移譲しました。池田耕地整理組合による水利権取得は昭和81933)年7月と、地元主導で灌漑計画を策定することできない期間が長く続いたという点も、池田湖周辺の農地問題を複雑にしています。現在の水利権は、九州農政局にあります。
決湖碑にある“公”は、斉彬ではなく大山県令。堀切完工の翌年に西南戦争が勃発し、西郷隆盛に対する公金での資金援助の廉で、長崎で斬首されました(塩満郁夫“大山綱良日記と獄中からの遺言状”,黎明館調査研究報告 補説,1984)。
[3] YOSHIMURA,ShinkichiSoundings of Deep Japanese Lakes”,陸水学雑誌 Vol.8 No. 3-41938
[4] “●年一月公再キテ親督 工人遂巖石六十歩()湖水水奔激(シテ)()リテ(オドロ) 以爲●●●而水落ツルコト(カリ)()可田凡十七町三段餘”とあるように見えますがいかがでしょう(画像をクリックすれば、当該面が拡大表示されます)。“麑島縣大属今藤宏撰 門人桑幡公幸書”とあります。難解です。
[5] 中尾欣四郎“池田湖水位の経年変動に関する水収支的考察”,北海道大学地球物理学研究報告 第49号,1987330日。中尾は、揚水による実質減水限度が取水口床下5尺(≅1.5m)程度に設定された(最大限度15尺)としていますが、1974年の“南薩畑かん事業”では、水位を標高66mに維持する灌漑計画が策定されています。台風等による冠水被害を受け続けた湖畔地域と鳥越に守られた仙田地区の住民の間には、減水を目的とする放水をめぐっていろいろと確執があったようです(中尾(1987)では“深刻な対立”)。
[6] 弥次ヶ湯温泉の東方250m辺りに長井という字名の地区がありますが、名称が地名に由るものか否かを含め、長井温泉の詳細は不詳です(周辺にも湯元、湯ノ前、湯田、湯田尻といった字名があります)。長井温泉別邸は、島津家26代斉宣(大慈公)により寛政五(1793)年に設けられたようですが(ルイ16世、マリー・アントゥワネットが断頭台の露と消えた年です)、三國名勝圖繪(五代秀尭,・橋口兼柄,巻之二十一,1905国立国会図書館デジタルコレクション)が記された時点(1843年)で、既に“今浴池なし”という状態であったようです(三國名勝図繪では“十貳町村にあり”とあるものの、字長井は十町です)。
[7] 文化七(1810)年の伊能忠敬による測量記録(増村宏“伊能忠敬の鹿児島測量関係資料並に解説”,鹿児島県史料集 X1970331日,鹿児島県立図書館)にも“鳴川村境字辺田(ヘタ)”という地名が記録されていますが、ここでの“邊多”は現在の根占辺田で、指宿八景の“根占暮雪”同様、大隅の山並みの雪景色かと思われます。
[8] 宮と二月田の間には二反田川に沿って千手院、霜月田がありますから直接橋で結ぶことはできません。ただ“鹿児島県維新前土木史”の記載が果たして正確なものか、という疑念もあります。右は大日本帝國陸地測量部による“鹿児島県維新前土木史”と同年の1934年版指宿地図の一部(1901測圖・1932年要部修正測圖,Stanford University Libraries and the Stanford Geospatial Center)ですが、これを見ると鹿児島縣土木課が“秋元”と“下玉利”に境を接する“二月田”を含む区域全体を“宮”と認識していた可能性もあるのではないかとも思えます。
右の地図で“宮”の北東にある橋の地図記号(〕が現在の第一二月田橋です。東の方向にスクロールして頂けば河口にある潟口の船溜りに辿り着きます。中川路九萬一の“薩摩半島史跡名勝寫真帖(鹿兒島縣教育會印刷部,194267日,指宿図書館蔵)”には“潟口橋”として欄干の形状が異なる二本の橋の画像が掲載されているのですが、古老のご記憶に拠れば、このうち晴着を着た女の子と兵隊さんの写っている一枚が現在の二反田橋が架かるところにあった“太鼓橋”のものであるとのことです(写真の左奥が現在のシーサイドホテル、右奥が旧海翠園(潟口温泉:大阪毎日新聞社の日本經濟大觀1938年版(1938215日)に紹介記事があります国立国会図書館デジタルコレクション)。もう一枚は現在の湯ノ郷橋の場所にあった橋梁のようです)。残念ながら橋桁部分が写っていませんし“宮”からは相当な距離がありますが、夕刻に船溜りに着かれた斉彬公が別墅にお渡りの際には日の落ちる方向に架かる橋ですから、“鼓の橋”の位置を特定するに当っての悩ましい候補となっています。“薩摩半島史跡名勝寫真帖”が公の鼓橋夕照に触れている箇所には “二月田の別荘よりその下方に架設せられる二月田の大ママ鼓橋に映る夕日の景ならん”としつつ“太鼓橋は依然として昔日の面影を存ずるので瀉ママ口温泉に通ずる分岐道も茲に點せられてある”という分裂気味の記載があります。
写真を参照できるのはありがたいのですが、記載内容に少なからず信憑性を疑わざるを得ないところがあるため“薩摩半島史跡名勝寫真帖”は参考文献のページのリストには加えていません。

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