周辺の史跡①:鰻地蔵 |
周辺の史跡②:連房式登窯跡 |
鰻池は池田降下軽石の堆積後、池田火砕流の噴出と同時期に、松ヶ窪、池底と共に池田湖から山川湾にかけての構造線(山川-松ヶ窪構造線)上に開口したカルデラです(上の画像をクリックすれば、動画でご覧いただけます)。周囲4.2Km、面積1.2Km2、最深部56.5mの湖で、こちらが国土地理院の湖沼図ですが、マール全体の経口は山川マール並みの規模で、推定噴出量と比較して大きいことから、陥没によって拡大した可能性も指摘されています[1]。東の権現山成層火山体側には“地獄”と呼ばれる噴気孔も観察できる変質帯が拡がります[2]。
土人の傳へに、往昔此池を開き、水田になすべきとて、一方の低處を鑿ちしに、大鰻鱺其水口に横はりて塞きし故に、其鰻の片身を割しに、忽ち池中へ遁れ去て生活す、因て鰻池と呼ぶといへり、池中大鰻鱺甚多し、土人是を取ることを禁ず、
鰻湯 湯性硫黄氣あり、甚熱して侵し觸るべからず、俗是を地獄といふ、土人甘薯を嚢に盛りて、其内に浸せば、半時に滿たずして能熟すること、鍋釜に煮るよりも、猶速なりとぞ、
三國名勝圖會 巻之二十二 四
大鰻は、鰻を食べる習慣もないとされるこの地域では捕獲も禁じられていたようですが、大鰻群生地が市指定天然記念物になっている池田湖には、中浜の観光施設が飼育している個体が複数展示されています。体長1.5m、胴回り25cmほどでしょうか。鰻を食用とすることが禁忌とされていることもないようで、この施設のレストランには鰻重もあります。
“嚢に盛りて”云々は、湯峯神社(権現山成層火山体)の項でも紹介している“巣目”で、嘉永四(1851)年に島津斉彬が指宿別墅に滞在した際、山田爲正等の御供衆も池田湖、枚聞神社経由で鰻池を訪れ、蒸された甘藷を賞味しています[3]。新エネルギー・産業技術総合開発機構(2009)には、鰻の巣目の画像が豊富に紹介されていますが、こちらでは日常生活の一部で、傍らで卵や甘薯を販売している巣目が道端にあれば湯上りにお楽しみ頂けます。
旧NPO法人“縄文の森をつくろう会”は、佐賀の乱の戦線を離脱した江藤新平が鰻温泉に逗留中であった西郷隆盛を訪ねる際に辿ったとされる旧林道を2013年に整備して“うなっ せごどんのみっ”と名付け、エピソードを紹介しながらのガイド・ツアーを毎年企画していましたが、コロナ禍の影響もありNPO法人を解散して任意団体となって以降、ルートの整備を含め、この活動は継続しておりません。
地蔵菩薩を表す梵字が彫られた石柱に元徳四(1332)年の記年銘があるそうですが確認できませんでした。北朝の年号で南朝では元弘二年。後醍醐天皇が鎌倉幕府によって隠岐に流罪となり楠木正成が千早城で蜂起した年の遺構です。元弘の乱では揖宿氏も大友、少弐、島津勢に従って鎮西探題攻めに加わり、元弘三南朝(正慶二北朝;1333)年に7代成栄(彦次郎忠篤)が上洛してこれを届けています[4]。建武二年十二月十~十三日(1336年1月31日~2月3日)の箱根・竹之下合戦で後醍醐帝から離反した足利勢が官軍を破って京に攻め上る頃に足利方に転じるまでは島津氏、揖宿氏共に朝廷方でしたから、鰻地蔵の石碑に北朝の年号が刻まれているというのは極めて不思議です。平姓穎娃氏も島津家初代忠久が河邊忠永(長)を穎娃に封じて以来、島津家7代元久の代、應永四(1397)年に6代憲純が叛するまで島津家に列していました。島津貞久は九州に下った足利尊氏により南朝方の“兇徒”を討伐すべく南九州に差し遣わされ指宿成榮もその軍勢に加わりますが、鰻地蔵が祀られて4年後の建武三年のことです[5]。
当時の島津家当主五代貞久は鎮西探題攻めの功により大隅・日向守に補任され、建仁三(1203)年に乱を起こした比企能員の縁者として所領を没収されて以来、130年振りに本貫3ヵ国を回復しました[6]。貞治二北朝(正平十八南朝;1363)年に94歳で大往生を遂げた島津家の英傑の1人です。
指宿氏は建武四北朝(延元二南朝)三月十七日(1337年4月26日)に懐良親王の侍従三条泰季を薩摩に迎えたことで再び南朝方に転じました[7]。その38年後、九州探題今川了俊が筑前守護少貮冬資を肥後菊池郡水島で謀殺した水島の変(永和北朝元/天授元南朝年八月廿六日(1375年9月30日)を契機として島津氏も室町幕府から離反します[8]。
1月、5月、9月の16日は、“地獄”の蓋が開く御縁日(鰻詣り)。指宿市考古博物館(時遊館Coccoはしむれ)の編集した2014年1月の動画を島根大学附属図書館・奈良文化財研究所の“全国遺跡報告総覧”でご覧頂けます。
鰻地蔵から道を挟んだ高台に、登窯の遺構が残されており、2017年2月に、鹿児島大学考古学研究室の皆様による発掘調査が行われました[9]。“平成29年度鹿大史学会大会(2017/07/22)発表資料[10]”に拠れば、製品の特徴や窯道具よりみて、明治以降に苗代川系の技術を導入して稼行したと推定される比較的新しい遺構のようですが、この窯で焼かれたと思われる1,077点の出土遺物のうち73%に相当する783点に白色系胎土が使用されていることから、苗代川白焼(白薩摩)系の製品を指向していた可能性もあるようです。
2017年の調査では、登窯の窯尻(最後部)と考えられる部分が発掘されており、構造的には、3室の燃成室と燃焼室を含む連房式であったと考えられています(各室の形状、出土品等については、脚注10のプレゼンテーション資料に画像が紹介されています)。
窯体中央部が 木の根に支えられている状態となっていることもあり、これまでのところ内部の調査が行われておらず、周辺に工房が存在していたか否かも確認されていませんが、今後も調査が続けられるようですから、新たな発見に期待したいと思います。
【2018年2月調査】 こちらは1年後の調査の画像。窯体の形状が明らかになってきました(画像クリックで窯体正面の画像が拡大表示されます)。
20日の現地説明会での渡辺教授のご説明によれば、
1)出土品とその技術的特徴が明治時代の苗代川のものに類似しており、
明治時代末頃に苗代川の“伊集院どん”夫妻が鰻で焼物を焼いたという伝承があることから、
稼行は明治末年頃と考えられる;
2)失敗品の廃棄場(物原)が確認できず、燃成室壁面の溶解度が十分ではないことから、
稼行は極めて短期間であったと推定される;
とのことです。
【2019年2月調査】 2019年には燃成室と窯尻の間の隔壁も確認され、徐々に全容が明らかとなりつつあります。画像は 20日の調査状況です。
*山田聖榮自記(鹿児島県史料集VII,鹿児島県立図書館,1967年3月31日)
**島津道鑒(貞久)譲状,貞治貮年卯月十日(1363年5月31日),舊記雑録 前編巻廿七,鹿児島県史料,鹿児島県維新史編さん所,1980年1月21日(文書128(師久分)・129(氏久分))
***島津伊久下文,文書375,舊記雑録 前編巻廿九,鹿児島県史料,鹿児島県維新史料編さん所,1980年1月21日
Copyright © All rights reserved.