周辺の史跡①:天狗の祠 |
周辺の史跡②:尾掛の無足明神 |
周辺の史跡③:多羅神社 |
余談:天智天皇 |
魚見岳は、灰色の斜方/単斜輝石デイサイト溶岩(魚見岳溶岩:lup)により成る標高214.8mの岩体で、東側が降下安山岩スコリアと溶結凝灰岩の層(魚見岳火砕岩:lul)に覆われ、頂上付近で阿多カルデラ噴出物(斜方輝石単斜輝石デイサイト溶結凝灰岩:At)も観察できます。名称は“漁人網ヲ引クニ此山ニ登リテ海中魚ノ多寡ヲ見”たことに由来し[1]、錦江湾方向に突出した、ライン河畔のローレライ岩体を連想させる形状をもつ中期指宿火山群に属する地質ですが、中期指宿火山群の活動時期は特定されておらず、10万~10万5,000年前に形成された MATUMOTO(1943)の阿多カルデラに近く、80万年前頃までに成立した古期指宿火山群とは時期を隔てた地質遺産と考えられています。魚見岳溶岩は南側から田良岬側、魚見岳火砕流は魚見港から尾掛にかけての東北側に露出しています。川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅 - 鹿児島(15)第100号)”で採用された試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有量は、こちらからpop-up表示される図に示す比率となっています。
頂上に向かう車道が西方下吹越、尾掛から伸びており、この他に徒歩での登山道の入口が南側(N31.26046;E130.64848)にあります。これを10~15分ほど登って下吹越からの車道に合流する少し手前で、登山道は右側南南東に向かって、逆方向に切れ込むように続き、そこからまた10~15分で展望台の下に出ます。途中から車道を使っても、所用時間はさほど変わりません(“歩けば”という話です)。ただ、2016~18年にかけての相次ぐ風水害でかなり荒れてしまい、所々に辿り難いところもできていますので、あまりお勧めできるコースではありません。
頂上付近からは、対岸の大隅半島までを含むMATSUMOTOの阿多カルデラの眺望が開けます。足下の魚見岳は中期指宿火山、知林ヶ島、知林ヶ小島は阿多カルデラ噴出物、間を結ぶ陸繋砂嘴(馬鹿州)は開聞岳の885年噴火以降に噴出物が堆積することによって形成された沖積層という、なかなか壮大なパノラマです。
陸繋砂嘴の出現時刻は、“いぶすき総合観光サイト”の“砂州カレンダー”で確認することができます。
魚見岳、清見岳、竹山、大野岳、鬼門平には天狗様がお棲まいで、皆様が縄張りをおもちです。揖宿古主略考[2]には、“十二月二十九日并七月十三日又ハ月々ノ二十九日ニハ、多羅ノ嶽ニ鬼火多ク見ヘルトナン言傳ヘル由”とあり、清見岳と魚見岳(多羅ノ嶽)の鬼火が集まって不思議な回転遊行をする、という現象がみられていたそうです。流星群でしょうか。天気の良い夜には庭先から眺めていますが、どうもお心にかなわないようです。
天狗岩の麓にあったと伝えられる大天狗神社は、明治時代に多羅神社に合祀されましたが、頂上の展望台から南東の崖づたいに天狗岩の方向へ10分ほど下れば、梵字とおぼしき意匠の下に“大天狗”という文字が彫られた角柱を納める祠が現れます。奉納は湊の豪商濵﨑太平次(文化十一~文久三<1814~1863>年)、田良浜の豪商黑岩家の他、天狗信仰が篤かったと伝えられる、お由羅騒動(高崎崩れ)の元凶となった島津家27代斉興(寛政三~安政六<1791~1859>年)と諸説あるものの、黒岩家御当主のお話では、施主は斉興であるとのことです。御当主がそう言われる以上、資金源が何れにあったかはさておき、黒岩家の線は消えますし、“黒岩家お膝元の田良に湊の濱崎家が祠を祀ることは・・・”と言われると、納得するしかありません。ということで、ここでは斉興説を採っておきます。時代としては天保年間(1830~1843年)、或はその前後でしょうか。斉興公が寄進した揖宿神社の鳥居は肥後の岩永三五郎の手によるものですから、もしかして天狗の祠も・・・という連想は働きますけど、さすがにこれには確証がありません[3]。
祠を天狗岩の方向に少し下ったところにも何らかの遺構ではないかと思われる岩塊群があるのですが、こちらの詳細は今のところ判っていません。祠の近くには“大天狗の碑”と呼ばれる石造物もあったそうです。文化財保存に対する自治体の意識が低く、祠のほうも指宿市考古博物館 時遊館 Coccoはしむれの“海と港のめぐみ指宿まるごと博物館”のサイトで紹介されている画像とはかけ離れた姿となっていますので、お訪ねになって落胆されませんように。
天狗が赤を嫌うため、赤い服を着て魚見岳に登ると蹴落とされるという言い伝えがありますから、お気を付けて。
西方村尾懸浦魚見嶽の麓に鎮座、地頭仮屋の辰方三拾壱町余石華表あり石階を登れは茅屋社あり天照太神を祭るといふ,社の右五間許りに古木あり無足明神と崇め祭る、祭神詳かならす宮社なし、上古の神木なりとて櫨の朽木あり今ハ寓木おほく生して繁茂せり、神木の亥子のかたに一社あり鎮守なりといふ、明神の祭祀ハ十月十五日なり、
鹿児島県史料集 第四十三集,
鹿児島県史料刊行会,2004年3月
これに続いて述べられている旧暦十月十五日の祭祀の次第は揖宿神社文書に詳しく(無足明神は揖宿神社の末社でした)、
磯辺谷穴ヨリ舞出ノ行列、舞備、無足森ニ至事。穴ニ向、神拝在。次雷声在リ。次社人 海垢離在。直ニ穴籠リ支度在事。次雷声ノ音楽在。
先葉付ノ竹ニ籏ヲ附、舞出、斉場左右ニ備事。
次ニ無足鬼神舞出、浜下リ在。沖ニ向、葉付ノ竹ニテ、御塩井ヲ灑ク。
次長刀振舞出、次刀振 次杵玉振 次大宮司捧奉幣 次鬼神舞四人一同ニ舞出在。
次無足鬼神、音楽ニテ神幸在事 次第ニ行列舞備在。
無足ノ森ニ至リ、注連内ノ斉場ニテ、先長刀振ヨリ、次々ニ舞納在。
社人立会文在。
次笑顔ノ面ヲ着替、無足ノ森ニ御衣柴ヲ立廻シ、柴ノ内、森ヲ三度廻ル事。先ニ社司、次ニ無足鬼神、次ニ大宮司捧奉幣 但社司神歌在リ。三度終テ退去ス。
大綱 声ヲ懸ケ次第、早々烈シク巻事、旧式也。
次神酒 散米ヲ備、神拝ノ式在。畢退下。
新宮社幷末社祭式帳 一,慶応三年丁卯十二月取調
とあります。
薩隅日地理纂考(国立国会図書館デジタルコレクション)では“無足神社”とルビが振られていますが、下野(1986)[4]は指宿市尾掛の伝承として“無足どん”を紹介しており、本来の呼称は“むすっ(むそく)明神”であったのではないでしょうか。この行事を紹介している薩隅日地理纂考に“御衣柴”はありませんが、“又其神木ヲ柴竹ニテ纏ヒ又綱ニテ纏フ 是ヲ御衣綱ト名ツク”とある中の“御衣綱”の訓は“ミソヅナ”です。
尾掛のバス停留所から知林ヶ島寄りの道を入ったところにある短い階段の上に、左右に二体を従えた弓矢を持つご神体らしき石像と、両側に置かれた石造物が残されており、形状より推して薩藩名勝志挿絵にある“鎮守”である可能性も考えられます(下の石造物の画像をクリックすれば、三國名勝圖會版(国立国会図書館デジタルコレクション)の部分拡大図が表示されます)。
尾掛は1939(昭和14)年、1958(昭和33)年と二度の大火に見舞われ、1945(昭和20)年8月11日には東部45戸が罹災した空襲を受けていますから、本来の位置を特定し難いところがありますが、石造物は、以前、階段の中頃、少し海寄りの場所に置かれていました。弓矢をもつ石像の正面にあるアコウの樹は、そこにあった大振りのアコウに代わるものだそうです。
尾掛には“イシナト”と呼ばれる正月の習俗が伝わっていました[5]。子供達が先ずは的として置かれるダイダイ/ボンタンを目掛けて、続いて“イシナト、イシナト、何じゃ無かぁ、飛ベっ/よ”と囃しながら転がされるダイダイ/ボンタンを目掛けて矢竹を射掛ける遊びで、かつて弓矢はアコウ(榕・赤榕)で作られていたようです。また、地区の東西に分かれて漁網を半分ずつ綯い、各々が完成したものを持ち寄って一つに合わせた後に、双方が引き合って競うという行事もありました。
社を構えず依代としてのご神木を祀る習わし[6]、弓矢を持つ像とイシナト、石造物の前のアコウとアコウで作られていたイシナトの弓矢、御衣綱と漁網にまつわる行事・・・・・興味は尽きませんが、残念なことに伝承は殆ど途切れてしまいました。
下野(1986)が紹介している言い伝えは、毎年、大隅の古江から海を渡ってくる蛇が尾掛の黒山に登って若い女性を生贄にしたため、これを祀ったというものです。現在の無足どんは、尾掛の人々が匿った、足を失った平家の落人として伝わっているとのことです。かつて尾掛の一部であった知林ヶ島にまつわる言い伝えもあるのですが、別のページに知林ヶ島(阿多カルデラ噴出物)の項も設けていますから、またんこっにしもそ。
かつて田良は、現在の指宿市十町にはなく、2Kmほど東北に離れた、海に面した魚見岳南側の地域でした。
多羅大明神社 東方村田良浦に鎮坐、・・・<中略>・・・・祭神天智天皇左右天照大神稲荷明神勧請年月詳かならす、天智帝御下向の時御船の着たる所なりといひ伝ふ、今小松林となりぬ、
鹿児島県史料集 第四十三集,
鹿児島県史料刊行会,2004年3月
永正五年十一月廿一日(1508年12月23日)に建立された多羅神社は、薩藩名勝志の図版にも描かれていますが、田良浜の松原越しに魚見岳を望むその場所には、極く僅かの石柱の遺構と1965年に建てられた旧田良部落跡碑が残されるのみです。
十町田良は、1942(昭和17)年の揖宿海軍航空基地建設のための用地収用に伴う田良浜137戸の強制移転先の一つで、それまではボッカイと呼ばれていました(ボッカイは、指宿の言葉では、沼沢湿地を指す一般名詞でもあります)。多羅神社の御神体は、その時に旧十町田良公民館に移され、鳥居が取り壊された後も、天狗の祠とほぼ同時代の遺構と思われる“天保十四年癸卯九月吉日 松元貞次郎利資”と彫られた手水鉢が残っていました(2018~2019年の十町区画整理街区造成工事に伴い、公民館は西北に直線距離で 25mほど離れた位置に新設され、手水鉢もそこに移設されています。御神体は揖宿神社に納められました)。
魚見岳の南面には、1908(明治41)年指令甲4070号により多羅神社に合祀された風穴神社(風穴;風洞)の祠もあったようで、多羅大明神、無足明神のものと共に、揖宿神社文書に祭祀が記録されています。
同村魚見嶽の下岩間をいふ、天智帝田良浦に御着船ありて蘇山翁に逢ひ給ひし所なり、十月中の丑日風祭の式あり、近比石祠を建るといふ
鹿児島県史料集 第四十三集,
鹿児島県史料刊行会,2004年3月
“近比”は、三國名勝圖會に拠れば寛政十(1798)年で、田良公民館前の手水鉢(1843年)よりも古い時代の祠ですが、慰霊碑公園にある帝国海軍の施設配置図を見ると、魚見岳には相当数の防空格納壕が設けられていたようですから、天狗の祠・天狗岩の下に祀られていたとされる大天狗神社と共に戦争で失われてしまった遺産の一つかと思われます[7]。
蘇山翁の名は、開聞新宮九社大明神(揖宿神社)縁起にも見えます。
天智帝ハ別離ノ情ニ堪ヘス一日一ノ寳劍ヲ帯ヒ一ノ白馬ニ騎リ潜ニ山階山ニ行幸シ終ニ還御アラセラレス 丹波路ノ嶮難ヲ凌キ大宰府ニ潜幸シ給ヒ(御壽四十六歳)、大宰府二月ヲ越ヘ御船ニシテ日州志布志ト櫛間トノ間ニ御船ヲ留メ給フ、白鳳二年癸酉五月朔日当指宿多良浦ニ御着船アリ、今多良神社ノ社場ナリ、直ニ風穴ニ於テ翫樂ノ御遊アリ、其後風穴ヲ崇メテ神ニ祭リ年穀ヲ祈リ十月中ノ丒ノ日ニ御遊ニ準シ神祀ヲナセト云フ 茲ニ蘇山翁ナルモノ大宮姫御居所ヲ御尋ネノ為メ來リ居ラレシ、帝ニ面謁セラル西方曽山現爾社ハ右蘇山翁ヲ祀リシ所ナリ、帝ハ風穴ヘ御滞輿カ又ハ当神社ノ場所ニ滞御アラセラレシカ詳ナラス、
天智天皇謎の失踪サスペンスからの展開は、指宿地方に伝わる他の伝承と整合的です。曽山現爾社は、薩藩名勝志にも現示祠として西方曽山にある旨の記載がありますから、蘇山翁が地名の由来となっている可能性は高そうですが、謎に包まれた翁です。
昔日の田良があった場所には野球場、陸上競技場、キャンプ場等が広がり、八紘一宇の時代の面影さえも戦前の記憶と共に殆ど失われました。ただ、物理的な爪跡の全てが消え去ったわけではありません。魚見岳北側の魚見港はカミカゼ水上機の中継地となった揖宿海軍航空基地の駐機場の名残で、魚見岳には防空壕を含む当時の基地の跡が残されている他、べニア板製の肉弾兵器を海に運ぶために建設された第106震洋隊の出撃用スロープや地下壕の遺構に触れることもできます[8]。
天智天皇の田良浜上陸は、開聞山古事縁起でも白鳳二年です[9]。白鳳は逸年号ですので正史との対応については諸説あるものの、癸酉とありますから、ここでは西暦673年とします。帝の西行は、福元火砕岩類、十町溶岩の項でも触れている大宮姫を慕ってのことだったとされているのですが、2人の生涯をまとめると下の表のようになり、伝承は、帝が自らの崩御を待ってご寵愛の姫の後を慕われる、という心ときめくお話です[10]。1年前に既に消息を絶たれていた帝の随臣が海上から宿泊の地とすべく指さしたことが指宿の地名の由来となったというオマケも用意されています(開聞山古事縁起,神道体系 神社編四十五,神道大系編纂会,1987 )[11] 。
今前後文中に取て引證する者は、古傳の實説と見ゆれども、彼天智帝と大宮姫との亊蹟に至ては、後世の僞説と見ゆ、故に其所載の如き、虚妄無稽にして、明證なく、牽強附會にして、信用すべからず、
三國名勝圖會 巻之二十三 二十八 開聞神社 縁起辨
まぁ、そこまで言わなくても・・・。
麑藩名勝考(鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1982年2月27日)に拠れば、揖宿神社(開聞新宮九社大明神)“午未の方五町許り”の沫ヶ峽に、天智帝御腰掛の松があったそうです。
仝五日長主山江御幸之刻キ、当宮之上ニ御滞輿之松林有之。御腰掛之松与被申候。千余年を歴テ、明和年間落倒仕候。爰ニ於テ天皇ニ水茶ヲ献ス 其地を沫ヶ迫与号シ給ふヿ申伝候。今申シ誤而歟 葎ヶ迫与唱ヘ申シ候。
新宮神社祭幷其外取調帳,明治二年己五月十二日(1869年6月21日)
明和は1764~1772年。“葎迫”は“もぐらさこ”と訓じ、字名として残っています[12]。
天智天皇については“鏡池マール群”のページもご参照ください。
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