周辺の史跡①:海雲山正龍寺 |
(補)桂庵玄樹と南浦文之 |
周辺の史跡②:成川の十一面観音像石殿 |
余談①:木村重成と真田幸村 |
余談の余談:眞田日本一之兵 |
余談②:JR山川駅 |
余談③:ヤス猫 |
山川は旧指宿の山川村なりしを某年鄕となし福元村と名つけしといへり、湊ハ福元村鳴川村両邑に相接し拾町余の入江湾曲にして廻り凡壱里、湊口東にむかひ広さ凡八町、自邦他州の旅舶日々出入ありてよく風波の難を凌き本藩第一の湊なり、鳴川に瀧あり、流れて渚に至れは温湯涌出し港中の便利甚たよろし、大唐の漂船及ひ琉球の船もおほく当津に來り風便を待ち安危を伺ふといふ、指宿の境渡りといふ所より眺望するに其風景絶妙にして画工も筆に及かたし
鹿児島県史料集 第四十三集,
鹿児島県史料刊行会,2004年3月
三國名勝圖會(国立国会図書館デジタルコレクション)には“港の緫狀瓢に似たり、港口は瓢の頭にて、港内は瓢の腹の如し(卷二十二 一)”とあり、薩藩名勝志の挿絵共々、海水が流れ込んだ爆裂火口の形状が明確に描写されています。山川の市街地は、火口跡に海水が流入した後に形成された砂嘴の上に成立しました。
Fucheu(九州)Canguexuma(鹿児島)の Iamangoo(山川)は、ポルトガルの商人ホルヘ・アルヴァレス(Jorge Álvares)による宣教師フランシスコ・ザヴィエル(Francisco Xavier;~1552)への 1547年の“報告(Informação)”によって西欧に習俗が紹介された日本で最初の土地となります[1]。この時、アルヴァレスは、マラッカに伴ったヤジロウ(Angiro)をザヴィエルに引き合わせました。アステカ帝国を滅ぼしたコルテス(Hernán Cortés de Monroy y Pizarro)が没し、後に“ラ・マンチャの男(Don Quijote de la Mancha)”を著すセルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra)が生まれた年です。
アルヴァレスの報告から311年後の1858(安政五)年4月29日、長崎海軍伝習所のカッテンディーケは、勝海舟等と共に、島津斉彬公を山川に寄港した咸臨丸に迎えました。カッテンディーケは、深度より推して山川湾は爆裂火口(uitgebrande krater)であろうという的確な考察を加えています(Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke/水田信利訳“長崎海軍伝習所の日々 - 日本滞在日記抄”,東洋文庫 26,平凡社,1964年<“Gedurende Zijn Verblijf in Japan in 1857, 1857 En 1859”, Digitalisierte Sammlungen, Staatsbibliothek zu Berlin, 1860>)。
文化七(1810)年の伊能忠敬による測量記録(増村宏“伊能忠敬の鹿児島測量関係資料並に解説”,鹿児島県史料集 X,1970年3月31日,鹿児島県立図書館)に“鳴川村境”という地名が記録されていますが、ここでの“指宿の境渡り”は、江戸期に船舶の出入りを監視する五人番が置かれていた“山川と指宿との境にある渡”を指すかと思われます。“鳴川に瀧あり”とある鳴川瀑布と共に、渡村群居は山川八景に選ばれていました。
JR山川駅を含む山川湾の周辺では山川湾溶岩(lyg)の露出を確認できます。新規指宿火山群のうち池田火山よりも古い時代の斜方/単斜輝石安山岩溶岩で、で、山川マールの形成により原地形が失われてはいるものの、地表で確認できる新期指宿火山のユニット中では最も古いもので[2]、川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅 - 鹿児島(15)第100号)”で採用された試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有量は、こちらからpop-up表示される図に示す比率となっています。
JR山川駅のすぐ側にある成川の滝も山川湾溶岩を下ります。
山川湾溶岩の周辺に分布している地質図記号Ypsは山川火砕サージ堆積物。単斜/斜方輝石石英流紋岩軽石です。池田降下軽石噴出後の池田火砕流や、山川湾-松ヶ窪構造線上で活動したマール群の噴出物と同時期の噴出物と考えられますから、池田火山活動期の地質遺産で、山川湾溶岩とは年代値で7万年ほどの差があります。
池田湖から山川湾にかけては松ヶ窪、池底、鰻池、成川といった池田火山の活動期に形成されたマール群が、久世岳から辻之岳を経て竹山、俣川洲を結ぶ溶岩脈(竹山-辻之岳構造線)とほぼ平行に走る構造線(山川-松ヶ窪構造線)上に直線的に連なり、そのうち最も山川マールに近いのが成川盆地です。成川の市街地は、開聞岳の活動によって堆積したシルト層に覆われていますが、旧開聞町側から旧指宿市に向かう成川バイパスの成川トンネル手前から火口壁の露頭を確認することができます。
山川邑正龍寺來由記を按ずるに、禰寝氏の支族、山本某、一日小根占と山川との間、海上にて大棘鬣魚を釣得て、歡抃し、家に歸て其魚腹を割く、其腹中に黄金許多あり、山本驚愕して、奇異とす、即ち其黄金を以て小根占に東漸寺、山川には正龍寺を創建す、 [3]
三國名勝圖會巻之四十五 八
正龍寺は後に一時廃れ、明徳元(南朝年号元中七・西暦1390)年、入唐を目的に薩摩を訪れた虎森和尚[4]が島津家7代元久(恕翁公)に乞われて中興開山となり復興されています(薩藩名勝志,鹿児島県史料集 第四十三集,鹿児島県史料刊行会,2004年3月 )。
藤原惺窩(1561~1619年)は、四書を極めることを目的に明を目指して果たせず、鬼界ヶ島(硫黄島)に漂着した文禄二(1593)年の秋に山川に渡り、翌年四月まで、海雲山正龍寺に滞在したとされています[5] 。当時は臨済宗の学問寺で、明で7年間朱子学を学んだ薩南学派の祖桂庵玄樹(1427~1508年)の朱註四書(大学章句)、及びこれに南浦文之(1555~1620年)が修正を加えた文之點が伝えられていました。住持問得和尚から訓點本を紹介された惺窩は、“ 今明國に渡らんとす、亦此亊の爲のみ、何ぞ渡海を煩わすべけん耶(三國名勝圖會 巻之二十二 十四,国立国会図書館デジタルコレクション)”と、これを書写し、改めて渡明を試みることなく京に戻りました。
麑藩名勝考(鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1982年2月27日)は、
今按に、惺窩の和歌題に、鬼界島へ船繋ぐとあれハ、當時坊津より開洋せしにそ、山川の事覺束なきにや、又程朱の説ハ此より遥に前の玄惠法印、既に朱注を講せしよし見へたるに、文之に始るなとあるも、その傳の誤れるを知へし (薩摩 三)
と否定的ですが、玄惠法印(~1350)は、三國名勝圖會に“初め京都南禅寺主岐陽和尚、訓點を下せる、朱註四書あれとも、麁畧にして乖誤多し”とある岐陽方秀(1361~1424 年)の誤りかと思われます。 玄惠法印は、日野資朝が倒幕のための集会を偽装することを目的に“ 事ヲ文談ニ寄ンガ為ニ、其比才覺無雙ノ聞ヘアリケル玄惠法印ト云文者ヲ請ジテ、文集ノ談義ヲゾ行セケル(太平記 巻第一 無礼講事付玄惠文談事)”学僧ですが[6]、朱註四書に朱点を施したという事実はあったでしょうか。残念ながら、批判の論拠が信憑性を欠きますし、岐陽が生まれる前に亡くなった玄惠の朱点が存在していたとしても、岐陽のものさえも超えるものではなかったでしょう。
往時の正龍寺は廃仏毀釈によって廃寺となり、現在の正龍寺(山川金生町75)は、浄土真宗西本願寺派の寺院ですが、山号の海雲山はそのまま引継がれ、門前の仁王像も奇跡的に廃仏毀釈運動による損傷を免れた、指宿には珍しく寺院前に置かれる旧正龍寺由来のものです。当時の墓石の一部も浦向に残されています。正龍暁鐘(“晩鐘”ではありません)も、山川八景の一つでした。
桂庵玄樹の墓は鹿児島市伊敷の桂庵公園、南浦文之の墓は姶良市加治木町反土の安国寺にあります。
(補)桂庵玄樹と南浦文之
桂庵玄樹は周防山口の人。明からの帰国後、戦乱を避けて西行し、来麑は文明十年二月廿一日(1478年4月3日)。現在の志布志市田之浦にあった桂樹院島陰寺の開祖となり、朱子学を広めました。その著とされる“桂菴和尚家法倭點”は、国立国会図書館デジタルコレクションでご覧頂けます。参考画像を付した墓の紀年銘が享保七(1722)年と、没後200年以上を経たものとなっているのは、当初の墓碑が永らく忘れ去られていたことに因るものだそうです(三國名勝圖會,国立国会図書館デジタルコレクション)。
南浦文之は日向國外浦の人。鹿児島市大竜町にあった瑞雲山大龍寺の開山です。薩藩名勝志(鹿児島県史料集 第四十二集,鹿児島県史料刊行会,2003年3月)に、島津家18代忠恒(家久)が、15代大中公(貴久)、16代貫明公(義久)の位牌を祀るために慶長十六(1611)年に建立した寺院とあり、寺号は大中公と貫明公の法号である龍伯に由来します。三國名勝圖會(国立国会図書館デジタルコレクション)に拠れば、6才で延命寺の天澤に師事した頃には既に“群童に異なり、夙に脱塵の志”ある神童で、入門後は“文殊童”と呼ばれました。
初め桂庵、四書集註を洛の南禪惟肖等に受く、皆岐陽國讀點を加ふところなり、桂庵多く其ノ乖誤を改め、以て月渚等に傳へ、月渚以て一翁に傳へ、一翁以て文之傳へ、文之亦間ママ改正しで弟子に傳ふ、文之釋氏に居るといへども、自ら朱學を任とす、是を以て三州靡然として風に嚮ひ、緇素雲集し、生徒座に滿つ、
三國名勝圖會(国立国会図書館デジタルコレクション)
玄樹、文之と薩南学派については、天囚西村時彦“日本宋學史(杉本梁江堂,1909年)”に詳しく、三國名勝圖會で縷々述べられている藤原惺窩剽竊説も“(九)惺窩對文之點の疑獄”で展開されています(国立国会図書館デジタルコレクション)。
室町時代の成川(鳴川)には、領主であった鎌田氏が“西殿”と呼ばれる居城を構えていたとされ、堀跡と思われる溝も残っています。画像の石殿は、流失の惧れがあったことから、2004年に現在の位置よりも南側にある急斜面から移されたものです。永禄九年三月朔日(新暦1566年4月1日)とあり、藤原判官鎌田但馬守法名松月宗靏居士が、東善坊という僧侶に滝行を命じ、これが成就した時に、十一面観音を奉納したようです。十一面観音は、内部に収められた石板に彫られています。
画像で左にある板碑には、天正四( 1576)年に、鎌田政成が西国三十三ヵ所を巡礼した旨が記されているようですが、天正四年は、長篠の戦いの翌年で、武田信玄の葬儀が営まれた年でした。石殿が奉納された永禄九年は、三好三人衆が室町13代将軍足利義輝を暗殺した永禄の変の翌年、三好三人衆と対立した松永久秀との市街戦で東大寺大仏殿が焼失した南都焼討の前年です。
まぁ、地勢的に中央の情勢に鈍感となりがちという土地柄に加えて信仰心の厚い鎌田さんのお人柄でしょうか。今川氏眞のような人物であったのかもしれません。
手前ェが滝行をやったんじゃぁねェのかよ、とは思いますけど・・・。
夏御陣五月五日に木村長門守重成風呂に入 髪を洗わせ 香を焚きこめ 江口の曲舞紅花の春のあしたと靜に謡ひ 餘念なく小鼓を打つてうたひけり 其翼日井伊の先陣と戰ひ庵原助右衛門と鎗を合せ花やかに討死しける首をば安藤長三郎取りける也 神君御覧有りて甲とを取寄て忍びの緒の端しを御覧有って 討死を極はめ覺悟したる心ばせは天晴なる勇士なりしと御感心淺からずと宣もふ 其時木村が髪をすき香を焚きし女 後年江戸へ來り木原意運と云外科の醫師の伯母にて有りしが 老後此事を常に語りけるとかや
眞田增譽“明良洪範 巻之三”
彦根市の弘誓山宗安寺(本町二丁目3-7)に首塚のある、この清々しい若武者には、夏の陣後に薩摩に落ち、山川に葬られたという言い伝えがあります。
木村重成墓 山川村にあり、昔時此村松木園門の内牛房山に日蓮宗の妙見寺といへる佛寺ありしに、鹿兒島に移さる、今の妙願寺是なり、當所其寺址に、古墓三ツ殘れり、其三墓の前面に、皆南無妙法蓮華經云々と刻し、其左右に、年號月日を記す、其一墓に南無妙法蓮華經、智見院隆淸尊魂と書し、左右に寛永六年、閏二月廿五日と記す者あり、是木村長門守重成が墓なりといひ傳へり、土人の傳へに、重成は元和の役、潜に大坂を出て、本藩に遁れ來り、當地に没せし故、其墓ありといふ、
三國名勝圖會 巻之二十二
大坂の陣から14年後の1629年4月18日没、享年36でしょうか。妙願寺も既にありません。
大坂の陣といえば、木村長門守と並んで人気の高いのが、真田左衛門佐幸村(信繁)です。
先将軍家御先手も如何したりけん、少々頽れ、足を亂しけれども、越前勢は少しも漂はず、眞田が勢を引包んで攻め戰ひける程に、小敵の固きは大敵の虜なりと、孫子が詞いかでか違ふべき、從軍忽ち討たれければ、眞田も終に討たれて、首をば越前の家人西尾仁右衛門取りしかども、誰れが首とも知らざりけり、
難波戰記 巻第二十一 早稲田大学出版部版“忠直卿合戰附眞田討死の事”
長門守討死の翌日、大坂城が炎上する慶長二十年五月七日(新暦1615年6月3日)の、余りにも切ない最後ですが、首実検がいろいろと物議を醸すものとなったことに加えて、豊臣秀頼の遺体を確認できなかったこともあり、
夫より秀賴公幷びに附随ふ面々 眞田左衛門佐幸村 同大助 長曾我部宮内少輔 同三男右衛門三郎 後藤又兵衛 眞田ヶ郎等海野三左衛門 望月主水 笈川與八郎 穴山新兵衛 相木森之介 筧金六 三輪琴之介 月方平馬 布下彌八郎 梁田新八郎 齋藤佐太郎柘植内藏介等 舟に打乘纜を解きしかバ 海上の風波心に任せ 日ならず薩州へ落行し人々合せて百五十人とぞ聞えけり
眞田三代記 五編二十六巻 榮泉社版
“眞田幸村秀賴公を伴ひ薩州へ落る事幷島津家由緒の事”
と、秀頼、幸村生存説には根強いものがあります[7]。
真田三代記は、猿飛佐助、霧隠才蔵でお馴染み立川文庫の真田十勇士のネタ元となった元禄年間(1688~1704年)の時代小説に過ぎませんが[8]、秀頼の薩摩落ちの噂は、鎖国前に日本に滞在したイギリス商館長リチャード・コックス(Richard Cocks)の1615年の日記にも繰り返し表れますから、大坂落城直後から人口に膾炙していたと考えられます[9]。後に、オランダ商館長ティツィング(Isaac Titsingh)の訳をクラプロート(Julius Heinrich Klaproth)が増補した仏語版“日本王代一覧(Nipon O Daï Itsi Ran ou Annales des Empereurs du Japon)”によって、兵庫(Fiougo)経由での Fide yori 薩摩(Satsouma)落ち伝説は欧州にも紹介されました[10]。
真田三代記の幸村は、元和二年十月十一日(新暦1616年11月19日)に、秀頼と島津家諸臣に見守られながら他界します。秀頼は、島津義弘によって“慇懃に待遇”され、“城邊の井上谷と云處に土地を高くし”て建てられた新殿に住んでいたはずですから、幸村逝去の地もそれに近いと考えることが妥当かもしれませんが、その墓と伝えられる遺構は、南九州市頴娃町牧之内の雪丸にあります[11]。麓を阿多火砕流堆積物に覆われた新期南薩火山体兵児岳の中腹、N31.30198:E130.49967辺りにある駐車場から、緩やかなトレッキング・コースを400m程上がったところです。
薩摩落ち伝説は、関ヶ原の合戦の後、宇喜多秀家が島津家に匿われていたという史実から派生したものでしょうか。実際、寛永十(1633)年に薩摩で身柄を拘束された明石掃部全登の長子小三郎のような人物も存在します[12] 。
幸村には享年を75(1641年没)とする言い伝えもあり、薩摩滞在後に移り住んだ秋田県大館市の起行山一心院(谷地町後)に墓石があるそうです。大館市のWebサイトに、産業部観光課観光振興係による一心院に残された遺構と伝承を紹介するページがあります(伝説とともに残る真田幸村の墓)。
舊記雑録 後編巻七十一(鹿児島県史料,鹿児島県歴史資料センター黎明館,1984年2月20日)に慶長二十年六月十一日(新暦1615年7月6日)の文書として、大坂夏の陣の戦況を箇条書きにまとめたものがおさめられています。
一 五月七日ニ御所様之御陣ヘ眞田左衛門仕か丶り候て、御陣衆追ちらし討捕申候、御陣衆三里ほとつ丶にけ候 衆は皆〻いきのこられ候、三度めニさなたもうち死ニて候、眞田日本一之兵、いにしへよりの物語ニも無之由、惣別これのミ申事ニ候(鹿児島県史料で“御陳衆”となっている部分は、現代表記に従い、“御陣衆”に改めました。)
この夏の陣巨細条書は“家久公御譜中ニ在リ”とされていますが、“由”とあるところをみると、“真田日本一之兵”を含め、特定の個人の見解というより、世間一般の評価の島津家への報告と考える方が妥当ではないかと思われます。島津家参陣の前に大坂の役は終わっていますから、幸村の奮戦を目の当たりにして感嘆したことが記録されているわけではありません。
2016年のNHK大河ドラマ“真田丸”では、“真田日本一の兵”は上杉景勝の言葉として取り扱われていました。まぁ、現場にいた関係者の思い入れを込めなければシナリオが成立しないという事情も理解できますし、参陣を逡巡していた島津家をこのためだけに関わらせることにも無理はあるでしょうけど、先の大館市に伝わる逸話を含め、もう少しご配慮があっても良かったのではないかと・・・。
尚、大館市の一心院には幸村・大介父子のものとされる墓石が残されているそうですが、二人の墓石とされるものは鹿児島にもあります。大根占(錦江町)の真田稲荷神社跡にある石造物です。ただ、舊記雑録では“秀頼様五月八日未ノ刻御切腹、- -<中略>- - 秀頼様御介錯速水甲斐守殿”とある項の“千帖敷ニて切腹之衆”の中に“眞田大介左衛門子”の名がみえ(鹿児島県史料では“介錯”は“介借”です)、眞田增譽の“明良洪範 巻之三”には、大介の切腹の際のエピソードも伝えられています。
佩楯をも取り候へと側より申ければ 大将たる者の腹切には佩楯は解かぬものなり 我も眞田左衛門が伜なりとて はいたてきながら自害致され候 此のはいたての死がひこそ大助ママに候(国立国会図書館デジタルコレクション)
現地を含め、鹿児島県内では“山川”を“やまがわ”と濁って発音しますが、JR九州山川駅の表記は“やまかわ”です。“やまがわ”と“やまかわ”ではアクセントの置き所も違いますから、軽い“shibbólet”になっています*。
* 旧約聖書に、ギレアデ人がエフライム人と戦って勝利を収めた際、エフライム人が sh[ʃ] を発音できないことを利用してエフライムからの難民を特定し、4万2,000人を殺戮したという逸話があります(士師記 第12章,国立国会図書館デジタルコレクション)。隼人の乱の結末が“斬首獲虜合テ千四百餘人(續日本紀 巻八 養老五年七月七日)”ですから、額面通りに受取れば、その30倍に相当する人々が犠牲となる悲劇でした。合言葉を意味するShibboleth [英・独]、chibolet [仏] 等はこの故事由来で、語源は“麦の穂”等を指すヘブライ語(שִׁבֹּלֶת)だそうです。
特に、国外からのお客様を案内される際はお気を付けて。“Yamagawa”と“Yamakawa”は、彼等にとっては全くの別物です。
「山」・「川」は、四十七士の合言葉です。“こっちが「山」ってやァ、向こうは「川」。こっちが「山川」ってやァ、向こうは「白酒」”と落語のクスグリにもある「やまかわ」が、“助六”の“白酒売り新兵衛(実は曾我十郎祐成)”の担う桶でもお馴染みですから、どうしてもYama-Kawaと発音しがちですが、ヤマガワ人は平和を愛する人々ですのでご心配なく。
“成川”は“鳴川”由来ですが、“なるかわ”ではなく“なりかわ”で、こちらは濁りません。“勧進帳”との縁はなさそうです。
【余談の余談】
曽我の仇討は建久四年五月二十八日(1193年7月5日)の出来事でした。その3日後に関係者として事情聴取を受けた十郎の愛妾、大磯の虎が祀ったと伝わる石塔が志布志に残されています。吾妻鑑に拠れば、事件の20日後に十郎を弔い出家した大磯の虎は信濃の善光寺を目指した、とあるのですが、その後に諸国行脚を思い立ち大隅にも立寄ったものでしょうか・・・。佐賀県小城市の雲海山岩蔵寺には鬼王と道三郎を伴った虎が兄弟の菩提を弔った際に霊が顕われて座った“殿の腰掛石”一対があります。
六月小
一日、丙申、曾我十郎祐成ガ妾 大磯ノ遊女、虎ト號ス、之ヲ召出被ト雖モ、口状ノ如キ者 其咎之無間、之ヲ放チ遣被畢、
- - - <中略>- - -
十八日、癸丑、故曾我十郎ガ妾 大磯ノ虎、除髪セ不ト雖モ黒衣袈裟ヲ着、亡夫三七日忌辰ヲ迎ヘ、筥根山別當行實坊ニ於テ佛事ヲ修メ、和字諷誦文ヲ捧グ、葦毛馬一疋、唱導施物等ト爲ス、件ノ馬者、祐成㝡期ニ虎ニ與フ所也、則チ今日出家ヲ遂ゲ、信濃國善光寺ニ赴ク、時ニ年十九歳也、見聞スル緇素悲涙ヲ拭ハ不ルハ莫シ 云々、
石材は阿多火砕流堆積物。南薩では赤色の荒平石という先入観がありますが、志布志では“黒石”とされる色合いです[13]。
弟の五郎時致は、足跡石を東京都江東区の賢臺山法乗院(深川ゑんま堂)に残しています。工藤祐経の菩提を弔い、仇を討ったことを御母堂を背負って御尊父の墓前に告げた際の足型とされてますけれど、お母さまはよほど目方のあるお方だったのでしょう。十郎は仇討後にNHK大河ドラマではティモンディ高岸宏行氏が演じた新田(仁田)四郎忠常に討たれ、捕えられた五郎も鎮西中太によって翌日梟首された筈ですから、ここでも霊が顕われたものでしょうか。
画像は山川港と根占港を結ぶフェリーなんきゅう®乗場の名物兄弟。鹿児島では茶トラを“ヤス猫”と呼びます。
島津家17代義弘公は文禄の役に猫 7匹を伴い 2匹が無事に帰還。このうちの 1匹について島津家三十代忠重の“炉辺南国記(鹿児島史談会,1957年12月1日,国立国会図書館デジタルコレクション)”に
この猫は黄白二色の波紋で、義弘の死後その子久保(ヒサヤス)に愛せられ、この猫をヤスと命名していた。その後この種の毛並の猫を郷土ではやすと呼ぶようになつたという
とあります。
ただ、義弘公第三子久保の没年は文禄二年九月八日(1593年10月2日)。享年21。朝鮮唐島(巨済島)での病死でした。文禄の役後に義弘公が唐島を発ったのは文禄四年五月十日(1595年6月17日)。六月五日(7月11日)に聚楽第で秀吉に謁見しています(西藩野史,鹿児島縣私立教育會,1896年9月15日,国立国会図書館デジタルコレクション)。没年は関ヶ原後の元和五年七月廿一日(1619年8月30日)ですから“義弘の死後”にヤスが存命であったとしても久保との接点があろうはずもありません。文禄の役の陣中での様子が誤って語り継がれたものかと思われます。
西藩野史には久保が朝鮮での鷹狩りの際に遭遇した虎に発砲し家士がこれを仕留めたという逸話が紹介されています。“義弘公ハ久保公ノ舉動血氣アマリ有テ過失アランヿヲ恐レ暼テ曰 暴虎馮河ハ将ノ品ニアラズ”と窘められたほどに若干血の気の多い人物であったようで、この次第は石田三成にまで届いています。
尚、斎藤孝寿書簡で“六尺(≒182cm)”となっている秀頼の身長は、眞田增譽“明良洪範”では“六尺五寸(≒197cm)”で、大谷翔平選手よりも4cmほど長身です(国立国会図書館デジタルコレクション)。
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