山川(やまがわ)マール・成川(なりかわ)マール

鷲尾岳からの鰻池マール・成川マール・山川マールの直列

 

薩藩名勝志の山川港図版 山川は旧指宿の山川村なりしを某年鄕となし福元村と名つけしといへり、湊福元村鳴川村両邑に相接し拾町余の入江湾曲にして廻り凡壱里、湊口東にむかひ広さ凡八町、自邦他州の旅舶日々出入ありてよく風波の難を凌き本藩第一の湊なり、鳴川に瀧あり、流れて渚に至れは温湯涌出し港中の便利甚たよろし、大唐の漂船及ひ琉球の船もおほく当津に來り風便を待ち安危を伺ふといふ、指宿の境渡りといふ所より眺望するに其風景絶妙にして画工(エカキ)も筆に及かたし

薩藩名勝志鹿児島県立図書館蔵


成川(鳴川)の滝 文化71810)年の伊能忠敬による測量記録(増村宏“伊能忠敬の鹿児島測量関係資料並に解説”,鹿児島県史料集 X1970331日,鹿児島県立図書館)に“鳴川村境”という地名が記録されていますが、ここでの“指宿の境渡り”は、江戸期に船舶の出入りを監視する五人番が置かれていた“山川と指宿との境にある渡”を指すかと思われます。“鳴川に瀧あり”とある鳴川瀑布と共に、渡村群居は山川八景に選ばれていました。

三國名勝圖會国立国会図書館デジタルコレクションには“港の緫狀瓢に似たり、港口は瓢の頭にて、港内は瓢の腹の如し(卷二十二 一)”とあり、薩藩名勝志の挿絵共々、海水が流れ込んだ爆裂火口の形状が明確に描写されています。山川の市街地は、火口跡に海水が流入した後に形成された砂嘴の上に成立しました。

 

Kiu-Xiu(九州)Canguexuma(鹿児島)の Iamangoo(山川)は、ポルトガルの商人ホルヘ・アルヴァレス(Jorge Álvares~1521の宣教師フランシスコ・ザヴィエル(Francisco Xavier~1552)に対する1547年の“報告(Informação)”によって西欧に習俗が紹介された日本で最初の土地となりました[1]。この時、アルヴァレスは、マラッカに伴ったヤジロウ(Angiro)を、ザヴィエルに引き合わせています。アステカ帝国を滅ぼしたコルテス(Hernán Cortés de Monroy y Pizarro)が没し、 成川マール火口壁の強溶結岩塊 後に“ラ・マンチャの男(Don Quijote de la Mancha)”を著すセルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra)が生まれた年です。

池田湖から山川湾にかけては松ヶ窪、池底、鰻池、成川といった池田火山の活動期に形成されたマール群が、久世岳から辻之岳を経て竹山、(また)川洲(ごし)を結ぶ溶岩脈とほぼ平行に走る構造線上に直線的に連なり、そのうち最も山川マールに近いのが成川盆地です。成川の市街地は、開聞岳の活動によって堆積したシルト層に覆われていますが、旧開聞町側から旧指宿市に向かう成川バイパスの成川トンネル手前から火口壁の露頭を確認することができます。

 

周辺の史跡①:海雲山正龍寺

薩藩名勝志の正龍寺図版 山川邑正龍寺來由記を按ずるに、禰寝氏の支族、山本某、一日小根占と山川との間、海上にて大棘鬣(ヲホタイノ)魚を釣得て、歡抃し、家に歸て其魚腹を割く、其腹中に黄金許多あり、山本驚愕して、奇異とす、即ち其黄金を以て小根占に東漸寺、山川には正龍寺を創建す、[2]

三國名勝圖會巻之四十五 八

国立国会図書館デジタルコレクション

正龍寺は後に一時廃れ、明徳元(南朝年号元中七・西暦1390)年、入唐を目的に薩摩を訪れた虎森和尚[3]が島津家7代元久(恕翁公)に乞われて中興開山となり復興されています(薩藩名勝志,鹿児島県立図書館蔵)。

 

藤原惺窩(1561~1619年)は、四書を極めることを目的に明を目指して果たせず、鬼界ヶ島(硫黄島)に漂着した文禄21593)年の秋に山川に渡り、翌年4月まで、海雲山正龍寺に滞在したとされています[4] 。当時は臨済宗の学問寺で、明で7年間朱子学を学んだ薩南学派の祖桂庵玄樹(1427~1508年)の朱註四書(大学章句)、及びこれに南浦文之(1555~1620年)が修正を加えた文之點が伝えられていました。当時の住持問得和尚から訓點本を紹介された惺窩は、“ 今明國に渡らんとす、亦此亊の爲のみ、何ぞ渡海を煩わすべけん耶(三國名勝圖會 巻之二十二 十四,国立国会図書館デジタルコレクション)”と、これを書写し、改めて渡明を試みることなく京に戻ったと伝えられています。

麑藩名勝考(鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1982)は、

今按に、惺窩の和歌題に、鬼界島へ船繋ぐとあれ、當時坊津より開洋せしにそ、山川の事覺束なきにや、又程朱の説此より遥に前の玄惠法印、既に朱注を講せしよし見へたるに、文之に始るなとあるも、その傳の誤れるを知へし 巻の三

と否定的ですが、玄惠法印(~1350)は、三國名勝圖會に“初め京都南禅寺主岐陽和尚、訓點を下せる、朱註四書あれとも、()(りゃく)にして乖誤多し”とある岐陽方秀(1361~1424年)の誤りかと思われます。玄惠法印は、日野資朝が倒幕のための集会を偽装することを目的に“事ヲ文談寄ンガ為、其比才覺無雙ノ聞ヘアリケル玄惠法印ト云文者ヲ請ジテ、文集ノ談義ヲゾ行セケル太平記 巻第一 無礼講事玄惠文談事)”学僧ですが[5]、朱註四書に朱点を施したという事実はあったでしょうか。残念ながら、批判の論拠が信憑性を欠きますし、正龍寺仁王像岐陽が生まれる前に亡くなった玄惠の朱点が存在していたとしても、岐陽のものさえも超えるものではなかったでしょう。

往時の正龍寺は廃仏毀釈によって廃寺となり、現在の正龍寺(山川金生町75)は、浄土真宗西本願寺派の寺院ですが、山号の海雲山はそのまま引継がれ、門前の仁王像も奇跡的に廃仏毀釈運動による損傷を免れた、指宿には珍しく寺院前に置かれる旧正龍寺由来のものです。当時の墓石の一部も浦向に残されています。正龍暁鐘も、山川八景の一つでした。

桂庵玄樹の墓は鹿児島市伊敷の桂庵公園、南浦文之の墓は姶良市加治木町(たん)()の安国寺にあります。

 

(補)桂庵玄樹と南浦文之

桂庵玄樹は周防山口の人。明からの帰国後、戦乱を避けて西行し、来麑は文明10221日(147843日)。現在の志布志市田之浦にあった桂樹院島陰寺の開祖となり、朱子学を広めました。その著とされる“桂菴和尚家法倭點”は、国立国会図書館デジタルコレクションでご覧頂けます。参考画像を付した墓の紀年銘が享保71722)年と、没後200年以上を経たものとなっているのは、当初の墓碑が永らく忘れ去られていたことに因るものだそうです(三國名勝圖會,国立国会図書館デジタルコレクション)。

南浦文之は日向國外浦の人。鹿児島市大竜町にあった瑞雲山大龍寺の開山です。薩藩名勝志鹿児島県立図書館蔵に、島津家18代忠恒(家久)が、15代大中公(貴久)、16代貫明公(義久)の位牌を祀るために慶長161611)年に建立した寺院とあり、寺号は大中公と貫明公の法号である龍伯に由来します。三國名勝圖會国立国会図書館デジタルコレクションに拠れば、6才で延命寺の天澤に師事した頃には既に“群童に異なり、(つと)に脱塵の志”ある神童で、入門後は“文殊童”と呼ばれました。

初め桂庵、四書集註を洛の南禪惟肖等に受く、皆岐陽國讀點を加ふところなり、桂庵多く其乖誤を改め、以て月渚等に傳へ、月渚以て一翁に傳へ、一翁以て文之傳へ、文之亦間ママ改正しで弟子に傳ふ、文之釋氏に居るといへども、自ら朱學を任とす、是を以て三州靡然として風に(むか)ひ、緇素雲集し、生徒座に滿つ、

三國名勝圖會国立国会図書館デジタルコレクション

玄樹、文之と薩南学派については、天囚西村時彦“日本宋學史(杉本梁江堂,1909年)”に詳しく、三國名勝圖會で縷々述べられている藤原惺窩剽竊説も“(九)惺窩對文之點の疑獄”で展開されています国立国会図書館デジタルコレクション

 

周辺の史跡②:成川の十一面観音像を収めた石殿と石碑

成川の方柱板碑と十一面観音を納めた石殿 室町時代の成川(鳴川)には、領主であった鎌田氏が“西殿(にいどん)”と呼ばれる居城を構えていたとされ、堀跡と思われる溝も残っています。画像の石殿は、流出の惧れがあったことから、2004年に現在の位置よりも南側にある急斜面から移されたものです。永禄93月朔日(新暦156641日)とあり、藤原判官鎌田但馬守法名松月宗靏居士が、東善坊という僧侶に滝行を命じ、これが成就した時に、十一面観音を奉納したようです。十一面観音は、内部に収められた石板に彫られています。

画像で左にある板碑には、天正41576)年に、鎌田政成が西国三十三ヵ所を巡礼した旨が記されているようですが、天正4年は、長篠の戦いの翌年で、武田信玄の葬儀が営まれた年でした。石殿が奉納された永禄9年は、三好三人衆が室町13代将軍足利義輝を暗殺した永禄の変の翌年、三好三人衆と対立した松永久秀との市街戦で東大寺大仏殿が焼失した南都焼討の前年です。

まぁ、地勢的に中央の情勢に鈍感となりがちという土地柄に加えて信仰心の厚い鎌田さんのお人柄でしょうか。今川氏眞のような人物であったのかもしれません。

手前ェが滝行をやったんじゃねぇのかよ、とは思いますけど・・・。

 

余談①:花のやうなる秀頼様を ~うちの眞田も薩摩に落ちゃぁがった~

平岡にて近臣評しけるは、木村長門守重成が討死は、かねて思ひ定めたるにてはあるまじきぞ、其故は、月額(さかやき)を剃らざるにと口々に申しけり、家康公聞召し、月額には依るべからず、冑を取り寄せて、忍びの緒を見るへしと上意ありしかば、即ち冑を見けるに、緒を結んで端を切りたり、是れ再び着まじと思ひける故なれば、(かれ)が討死は思ひ設けたる事ぞと、仰せられけり、

難波戰記 巻第十九 早稲田大学出版部版“木村長門守討死の事”

国立国会図書館デジタルコレクション

彦根市の弘誓山宗安寺(本町二丁目3-7)に首塚のある、この清々しい若武者には、夏の陣後に薩摩に落ち、山川に葬られたという言い伝えがあります。

木村重成墓 山川村にあり、昔時此村松木園門の内牛房山に日蓮宗の妙見寺といへる佛寺ありしに、鹿兒島に移さる、今の妙願寺是なり、當所其寺址に、古墓三ツ殘れり、其三墓の前面に、皆南無妙法蓮華經云々と刻し、其左右に、年號月日を記す、其一墓に南無妙法蓮華經、智見院隆淸尊魂と書し、左右に寛永六年、閏二月廿五日と記す者あり、是木村長門守重成が墓なりといひ傳へり、土人の傳へに、重成は元和の役、潜に大坂を出て、本藩に遁れ來り、當地に没せし故、其墓ありといふ、

三國名勝圖會 巻之二十二

国立国会図書館デジタルコレクション

大坂の陣から14年後の1629418日没、享年36でしょうか。妙願寺も既にありません。

 

大坂の陣といえば、木村長門守と並んで人気の高いのが、真田左衛門佐幸村(信繁)です。

先将軍家御先手も如何したりけん、少々(くず)れ、足を亂しけれども、越前勢は少しも漂はず、眞田が勢を引包んで攻め戰ひける程に、小敵の固きは大敵の虜なりと、孫子が詞いかでか違ふべき、從軍忽ち討たれければ、眞田も終に討たれて、首をば越前の家人西尾仁右衛門取りしかども、誰れが首とも知らざりけり、

難波戰記 巻第二十一 早稲田大学出版部版“忠直卿合戰眞田討死の事”

国立国会図書館デジタルコレクション

長門守討死の翌日、大坂城が炎上する慶長2057日(新暦161563日)の、余りにも切ない最後ですが、首実検がいろいろと物議を醸すものとなったことに加えて、豊臣秀頼の遺体を確認できなかったこともあり、

夫より秀賴公びに附随ふ面々 眞田左衛門佐幸村 同大助 長曾我部宮内少輔 同三男右衛門三郎 後藤又兵衛 眞田ヶ郎等海野三左衛門 望月主水 笈川與八郎 穴山新兵衛 相木森之介 筧金六 三輪琴之介 月方平馬 布下彌八郎 梁田新八郎 齋藤佐太郎柘植内藏介等 舟に打乘(ともづな)を解きしか海上の風波心に任せ 日ならず薩州へ落行し人々合せて百五十人とぞ聞えけり

眞田三代記 五編二十六巻 榮泉社版

眞田幸村秀賴公を伴ひ薩州へ落る事島津家由緒の事

国立国会図書館デジタルコレクション

と、秀頼、幸村生存説には根強いものがあります[6]

真田三代記は、猿飛佐助、霧隠才蔵でお馴染み立川文庫の真田十勇士のネタ元となった元禄年間(1688~1704年)の時代小説に過ぎませんが[7]、秀頼の薩摩落ちの噂は、鎖国前に日本に滞在したイギリス商館長リチャード・コックス(Richard Cocks)の1615年の日記にも繰り返し表れますから、大坂落城直後から人口に膾炙していたと考えられます[8]。後に、オランダ商館長ティツィング(Isaac Titsingh)の訳をクラプロート(Julius Heinrich Klaproth)が増補した仏語版“日本王代一覧(Nipon O Daï Itsi Ran ou Annales des Empereurs du Japon)”によって、兵庫(Fiougo)経由での Fide yori 薩摩(Satsouma)落ち伝説は欧州にも紹介されました[9]

雪丸の真田幸村宝篋印塔 真田三代記の幸村は、元和21011日(新暦16161119日)に、秀頼と島津家諸臣に見守られながら他界します。秀頼は、島津義弘によって“慇懃に待遇”され、“城邊の井上谷と云處に土地を高くし”て建てられた新殿に住んでいたはずですから、幸村逝去の地もそれに近いと考えることが妥当かもしれませんが、その墓と伝えられる遺構は、南九州市頴娃町牧之内の雪丸(ゆきまる/ゆんまい)にあります[10]。麓を阿多火砕流堆積物に覆われた新期南薩火山体兵児岳の中腹、N31.30198E130.49967辺りにある駐車場から、緩やかなトレッキング・コースを400m程上がったところです。

 

薩摩落ち伝説は、関ヶ原の合戦の後、宇喜多秀家が島津家に匿われていたという史実から派生したものでしょうか。実際、寛永101633)年に薩摩で身柄を拘束された明石掃部全登(たけのり)の長子小三郎のような人物も存在します[11]

幸村には享年を751641年没)とする言い伝えもあり、薩摩滞在後に移り住んだ秋田県大館市の起行山一心院(谷地(やち)(まち)(うしろ))に墓石があるそうです。大館市のWebサイトに、産業部観光課観光振興係による一心院に残された遺構と伝承を紹介するページがあります(伝説とともに残る真田幸村の墓)。

 

余談の余談:眞田日本一之兵

旧記雑録 後編 巻七十一(鹿児島県史料,鹿児島県歴史資料センター黎明館,1984220日)に慶長20611日(新暦161576日)の文書として、大坂夏の陣の戦況を箇条書きにまとめたものがおさめられています。

一 五月七日御所様之御陣ヘ眞田左衛門仕か丶り候て、御陣衆追ちらし討捕申候、御陣衆三里ほとつ丶にけ候 衆は皆〻いきのこられ候、三度めさなたもうち死て候、眞田日本一之兵、いにしへよりの物語も無之由、惣別これのミ申事(鹿児島県史料で“御陳衆”となっている部分は、現代表記に従い、“御陣衆”に改めました。)

この夏の陣巨細条書は“家久公御譜中在リ”とされていますが、“”とあるところをみると、“真田日本一之兵”を含め、特定の個人の見解というより、世間一般の評価の島津家への報告と考える方が妥当ではないかと思われます。島津家参陣の前に大坂の役は終わっていますから、幸村の奮戦を目の当たりにして感嘆したことが記録されているわけではありません。

2016年のNHK大河ドラマ“真田丸”では、“真田日本一の兵”は上杉景勝の言葉として取り扱われていました。まぁ、現場にいた関係者の思い入れを込めなければシナリオが成立しないという事情も理解できますし、参陣を逡巡していた島津家をこのためだけに関わらせることにも無理はあるでしょうけど、大館市に残る伝承を含め、もう少しご配慮があっても良かったのではないかと・・・。

尚、眞田大介には、幸村と共に薩摩に落ちた後に大館で没したという伝承もあるものの、旧記雑録では、“秀頼様五月八日未ノ刻御切腹、- -<中略>- - 秀頼様御介錯速水甲斐守殿”とある項の“千帖敷て切腹之衆”の中に“眞田大介左衛門子”の名がみえます(鹿児島県史料では“介錯”は“介借”です)。

 

余談②:JR山川駅

JR山川駅の駅名標 現地を含め、鹿児島県内では“山川”を“やまがわ”と濁って発音しますが、JR九州山川駅の表記は“やまかわ”です。“やまがわ”と“やまかわ”ではアクセントの置き所も違いますから、軽い“shibbólet”になっています

* 旧約聖書に、ギレアデ(びと)がエフライム(びと)と戦って勝利を収めた際、エフライム人が sh[ʃ] を発音できないことを利用してエフライムからの難民を特定し、42,000人を殺戮したという逸話があります(士師記 第12章,国立国会図書館デジタルコレクション)。隼人の乱の結末が“斬首獲虜合テ千四百餘人(續日本紀 巻八 養老五年七月七日)”ですから、額面通りに受取れば、その30倍に相当する人々が犠牲となる悲劇でした。合言葉を意味するShibboleth [英・独]chibolet [] 等はこの故事由来で、語源は“麦の穂”等を指すヘブライ語(שִׁבֹּלֶת)だそうです。

「山」・「川」は、四十七士の合言葉です。“こっちが「山」ってやァ、向こうは「川」。こっちが「山川」ってやァ、向こうは「白酒」”と落語のクスグリにもある「やまかわ」が、“助六”の“白酒売り新兵衛(実は曾我十郎祐成)”の担う桶でもお馴染みですから、どうしてもYama-Kawaと発音しがちですが、ヤマガワ(びと)は平和を愛する人々ですのでご心配なく。 山川湾溶岩露頭


 “成川”は“鳴川”由来ですが、“なるかわ”ではなく“なりかわ”で、こちらは濁りません。“勧進帳”との縁はなさそうです。

JR山川駅を含む山川湾の周辺では山川湾溶岩の露出を確認できます。池田火山の活動よりも早い指宿火山の地質遺産で、山川マールの形成により原地形は失われていますが、地表で確認できる指宿火山のユニット中では最も古いものです[12]





[1] JACA, Carlos “Relações Luso - Nipónicas nos sécs. XVI e XVII(2ª Parte)”, Agosto 10, 2005
[2] 東漸寺と同様に廃されてしまいましたが、三國名勝圖會国立国会図書館デジタルコレクションに拠れば、同じく根占にあった紫山大明神は、天正二年正月(157422~33日)に肝属氏等が禰寝氏領に侵攻した際に落命した喜入忠通と東漸寺住僧の霊を祀ったという神仏習合系の縁起のある社だったようで、その遺構が錦江町に残されています。
[3] 十二町にあった正龍寺の末寺、寶鏡山大圓寺の開基でもあり、そこを隠居所として應永二十年七月十九日(1413824日)に遷化しました(薩藩名勝志,鹿児島県立図書館蔵)。大圓寺は廃寺となりましたが、虎森和尚作と伝わる千手観音坐像が十二町小田に残されています。
[4] 山川滞在期間は、惺窩集の家君忌日詩序にある“逆旅”が難破後の山川滞在を指すとする説に拠るもので、久保天随“日本儒學史(博文館;1904年,国立国会図書館デジタルコレクション)”もこの時期であったとしています(第三篇 第十一章 藤原惺窩の南航。但し、この文献は、“山川は、今の坊津なり”と、かなり乱暴なところがあります)。三國名勝圖會には“惺窩の山川に來しは、年三十八歳の時なり”ともあり、これに従えば山川着は慶長31598)年です。
[5] 岩波書店日本古典文學大系。“玄慧”とするものもあり、参考文献のページに挙げている國民圖書版もその一つです。玄惠法印自身が太平記の作者の一人であるという説もありますから、“才覺無雙(國民圖書版では“才學無雙”)”は少し割り引く必要があるかもしれません。
[6] 后世眞田裔孫八百菜(ヤオヤ)。木村(ミセ)藥店。後藤金銭両換肆。・・<中略>・・ 傳所木村重成小村三四郎。眞田幸村蘆塚左衛門。極大男。因國人大左衛。亦幸綱蘆塚中左衛。亦其子蘆塚小左衛。后年幸綱島原擧兵惣宰。冊ヌル神童天草四郎豐禎(スナ)秀頼ニシテ。谷村(與)三郎弟也。伊賀倉俊貞“校正麑島外史”巻之五国立国会図書館デジタルコレクション)。まぁ、校正麑島外史は眉唾エピソード満載の与太読本の類ですから、参考文献とするのは気が引けますけど。
[7] 松浦静山の甲子夜話(続篇巻之五,平凡社 東洋文庫)に、文政119月(182810月)信濃松代藩8代藩主真田幸貫談として“世に真田三代記と云あり。大坂の町人某が作なりと云。此の書、家伝とは相違多し。妄作の書なり”とあります。
[8] コックス自身は秀頼生存説には懐疑的ですが、“秀頼(Fidaia Samme)は存命で、多数の武将が隨った(Others reported Fidaia Samme to be alive, and that many tonos were gon to hym to take his partJune 16)”、“薩摩、もしくは琉球に逃れた(Also it is reported that Fidaia Samme is escaped into Shashma or the LiqueasJuly 27)”といった噂が紹介されています(Diary of Richard CocksEdited by Edward Maunde ThompsonThe Hakluyt Society1882)。
[9] Supplément aux Annales des Daïri”,1834 。ティツィングは日本語を解せず、その“訳”は、専門知識をもたない3人の日本人(YOSIO KOSAKNARI BASI ZENBINARI BAYASI ZUIBI)を介したオランダ語での聞き取りによる二重の意訳という、極めて不完全なものです。クラプロートは、日本語の原典に沿い、これを加筆修正した上で、ティツィング版では107代後陽成天皇(在位1586~1611年)までとなっていた内容を、出版時点での今上天皇であった120代仁孝天皇(在位1817~46年)の時代にまで延長しました。秀頼の薩摩落ちに関する記載は、108代後水之尾天皇(在位1611~29年)の項にあります。
[10] 真田三代記で幸村の7日後に亡くなる秀頼の墓と伝えられる宝篋印塔は、幸村のものから直線距離で北に24Km程離れた、鹿児島市谷山中央四丁目の木之下地区にあります。甲子夜話続篇巻之五(平凡社 東洋文庫)に引用されている、松代藩真田家宛ての肥後細川家町奉行斎藤孝寿の書簡にある鹿児島での伝聞によれば、“元和之役、豊公(ヒソカ)其臣眞田幸村等、大坂城()(イツワ)薩摩于逃。豊公谿山(タニヤマ)。眞公頴娃リト・・・<中略>・・・レドモ世人之ルヲルカ其名(アラタメ)木下。是人後世以其邑木下曰也。公之爲人(ヒトトナリ)肥大、其(タケ)六尺。公(ツネ)都下往來ヒテ道路()縦横。眞君(ヱンノ)()(ヅノ)遺風。故今于至シテ、谿山酔人(ヱクロ)、頴娃山伏也云云ヱクロは薩の方言、酒酔人を云。”と、鹿児島での秀頼の評判は芳しいものではなく、鹿児島市では、宴会の途中で料金を支払わずに抜け出すことや無銭飲食を“谷山(いん)(くれ)逃げ”といい、秀頼由来の谷山地区の風習とする説があります。また、頴娃()山伏(やんぶし)は、頴娃地方の人々を多少の警戒感をもって指す言葉でもあります。かつての頴娃には現在の開聞も含まれていましたから、開聞岳に屯する修験者由来でしょう。“頴娃山伏”については、“関東かいもん会”のホーム・ページのコンテンツ“開聞昔話”のうち“エヤンブシ 1・2”の項にも紹介されていますので、そちらもご参照ください。
[11] 旧記雑録後編五巻八六(鹿児島県史料,鹿児島県歴史資料センター黎明館,1985)に、明石小三郎の身柄引渡しに関する寛永1011月(163312月)の幕府とのやりとりが記録されています(伊勢兵部少輔貞昌書状;酒井讃岐守忠勝、土井大炊頭利勝、酒井雅樂頭忠世連署書状;二階堂城介信行書状)。
[12] 太田良平“鹿児島県指宿地方地質調査報告(地質調査所月報,Vol17 No.31966年)”の“山川安山岩”、宇井忠英“鹿児島県指宿(いぶすき)地方の地質(地質学雑誌 第73巻 第10号,196710月)” の“山川溶岩”に対応します。

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