平戸八景(平戸 () (かた)八竒勝)

髙巖

潜龍水

大悲觀

眼鏡石

巖屋宮

福石山

潮之目

石橋


平戸八景は松浦静山公第三子で平戸藩10代藩主、松浦 (ひろむ)(觀中公;乾々齋公とも)が京の澤渡廣繁に製作を依頼した嘉永元(1848)年の“平戸 () (かた)八竒勝図”の画題により構成されています。長崎勤番の際に往来した平戸往還沿いの景勝のうち松浦郡と彼杵郡から各々4箇所を觀中公ご自身が選ばれたもので、現在は佐世保市の名勝です(“平戸”は旧平戸藩。“ () (かた)”は島嶼部を除く領地の意ですから、現在の平戸市は除外されます)。指宿八景を含む一般的な八景のように瀟湘八景型の見立てが意識されている訳ではありませんが、“平戸地方八竒勝図”は、八景の面影を島津斉彬公御詠を辿って偲ぶしかない指宿居住者としては羨ましい限りの内容です(一応とれるところで寂しいマウントをとっておきますと、図版に添えられている七言絶句は觀中公作ではなく澤渡廣繁によるものです)。

今回は、コロナ規制も緩んできたかなという時期を狙って義母が幼少期を過ごした思い出の地を(義母の御尊父は佐世保駐在の海軍士官で、佐世保生まれの義母は一時江田島で過ごした後にまた佐世保に戻っています)・・・という全力での便乗前提の佐世保行きを企画したことによるもので、おこぼれに与った平戸八景周遊の覚書を残しておきます。“八竒勝図”にある七言絶句も転載していますが、返り点、ルビは管理人にはこうみえますというだけのご参考です。

このページは基本的に佐世保市教育委員会編の“国指定名勝平戸領地方八竒勝(佐世保市文化財調査報告書第15集,2016731日)”を参考とし、疑問を感じるところに私見を加えつつ構成したものです。当該文献をWeb上で閲覧することはできませんが、 佐世保市のサイトからオン-ラインでご購入頂けます20225月現在)。

地質の参考文献としては、

松井和典・古川俊太郎・沢村孝之助“佐世保地域の地質”,地域地質研究報告 5万分の1地質図幅 福岡(14)第68号,通商産業省工業技術院 地質調査所,1989110

長浜春夫・松井和典“蛎ノ浦”,地域地質研究報告 5萬分の1地質図幅 福岡第79号,通商産業省工業技術院 地質調査所,1958830

長浜春夫・松井和典“早岐地域の地質”,地域地質研究報告 5万分の1地質図幅 福岡(14)第80号,通商産業省工業技術院 地質調査所,1982830

等をご参照ください。

佐世保は岩陰遺跡の多い街で、八竒勝巡りの途中にも充分に“竒勝”と思われる他のスポットに立ち寄ることができましたので、そちらも記録しておきます。何れも“ () (かた)”です。



髙巖 (たかいわ)

髙巖 七言絶句のうち髙巖

佐世保層群のうち砂岩、頁岩の互層構造もみられる福井層(Fk)。1,800万年ほど前の地質遺産です。“八竒勝図”で“下清流アリ”とされているのは () (むかえ)湾に下る江迎川。上流の溶岩台地には平戸八景の一つ、潜龍水があります。かつての平戸往還は髙巖と江迎川の間を通っており、市教育委員会の報告書で画像もご覧頂けますが、度重なる崩落のため対岸に移されたとのことです。1912年に刊行された加藤三吾の“平戸しるべ(興風會,1912527日,国立国会図書館デジタルコレクション”にも“今は崖崩れ松枯る 惜むべきなり”と、“八竒勝図”編纂後60余年で往時の面影は失われていたようで(“八竒勝図”の時代には“老松囲繞”ていました)、報告書の測量図にも3 箇所に落石がプロットされています。ここを訪れた 20225 月も崩落のため進入が制限されており、旧平戸往還の遺構を確認することはできませんでした。

髙巖

断崖に形成された複数の洞窟、岩陰のうちの岩屋洞穴と崖の上の平場で確認された山城跡の発掘調査結果の概要を島根大学附属図書館・奈良文化財研究所の“全国遺跡報告総覧”でご覧頂けます。

長崎県埋蔵文化財センター調査報告書第40 - 長崎県埋蔵文化財調査年報29 [令和2年度調査分],長崎県教育委員会,2021831



潜龍水

潜龍水 七言絶句のうち潜龍水

落差20mほどの江迎川の滝で、地質図では“潜竜ヶ滝”と表示されています。二筋あるうち水量の多い画像右側のものが雄滝、もう一筋が雌滝。北松浦玄武岩類のうち1,000~700万年ほど前の初期無斑晶玄武岩(B4)を流下しています。龍王寺の展望所からは潜龍水の下流にある同様の地質にに形成された二筋で流れる布引の滝と、これらが合流して一筋となった不動の滝を一望することができます。

潜竜ヶ滝公園から潜龍水に至る遊歩道には“此所より内 不浄のもの立入るべからず”と記された石杭と石門、觀中公揮毫の“龍門”が彫られる扁額を掲げる鳥居もあり、石杭、石門、扁額、鳥居の何れも紀年銘は文政十三(1830)年と、觀中公39歳の頃の石造物です。 潜龍水近くの滝など




大悲觀

大悲観 七言絶句のうち大悲観

報告書に拠れば觀中公が長崎滞在中に夢に見られた場所で、帰路、並び立つ巨岩の一つに登攀することを望まれたのですが、家臣に説得され断念。“大悲觀”と嘆かれたことが呼称の由来であるというエピソードが“平戸藩史考”に紹介されているそうです(諸説あるみたいですけど)。今一つの巨岩に彫られた“大悲觀”の文字は觀中公によるもの。文政十三年八月三日(1830919日)の紀年銘があります。“龍門”と彫られる潜龍水の扁額と同日です。紀年銘に続き“肥前守従五位下源朝臣熈”とあったようですが、半ば崩落してしまいました。

報告書(P.92)では相浦層のうち2万年前の但馬岳層(砂岩・頁岩)とされているものの、産業技術総合研究所地質調査総合センターの地質図をみる限り、周囲の泥岩層が浸食されたことで露出した柚木 (ゆのき)層のうちの江里凝灰角礫岩(Et)ではないかと思われます(流紋岩)。柚木層にも砂岩・泥岩互層が含まれますが、1,900万年ほど前の少し新しい地質遺産です。八竒勝図”に“下觀音銅像安置”とある観音像は現存しませんが、大文字直下には様々な摩崖仏を確認することができます。 大悲観周辺




眼鏡石

眼鏡石 七言絶句のうち眼鏡石

大悲觀と同じく佐世保層群のうちの柚木層ですが、流紋岩ではなく砂岩と頁岩が形成する比較的脆い地層で(Yl)、崩落の可能性があるということで現在も立入りが制限されています。海退・隆起によって露出した海蝕洞が浸食され、一部が残されたものでしょうか。多くの摩崖仏と梵字が刻まれていることも確認できますから、往古より信仰を集める霊地であったかと思われます。“八竒勝図”に“其上平ニシテ往来”とありますし、報告書に掲載されている明治期の写真にも上部でポーズをとる人物の姿が残されており、昭和初期までは往来が可能であったようですが、酔客の転落事故発生により通行が禁止されました。

岩面に残る梵字と摩崖仏のうちの千手観世音は、留学僧として唐に渡る前の空海(弘法大師)の手による延暦二十三(804)年の遺構とする言い伝えがあるそうです(下の画像で中央の柱の摩崖仏が千手観世音。左は十一面観世音、右は如意輪観世音です)。爾来、眼鏡石は信仰の地となり、現在も大師堂が祀られています。地質図に見える“卍”のうち“眼鏡岩”の右側のものが眼鏡岩観音堂。右上の“卍”安養山西蓮 (さいれん) ()(曹洞宗)の祖院で、800年ほど前に創建されたとされています。最近では1987年に建て替えられました。 眼鏡石の摩崖仏

象頭石 詩にある“靉靆 (あいたい)”は一般的には雲がたなびく/覆うさまを表す語ですが、貝原益軒の養生訓<五官>に“めがねは靉靆と云ふ。留青日札と云ふ書にみえたり。又、眼鏡と云ふ”とあり国立国会図書館デジタルコレクション、詩に“懸”の文字もありますから返り点はそちらに寄せたものとしました。尚、“留青日札”は田藝蘅による明代の書ですが、眼鏡を靉靆としているのは“留青日札”ではなく“留青日札摘抄”で、提學副使潮陽林公が使用していたという逸話が紹介されています中國哲學書電子化計劃<二298~9>)。誰だよ。

洞然空”と詠まれた眼鏡石の所在地の字名は“ホゲ岩”。“ほげる”は九州北部で“穴が開く/開いている”ことを意味します。

泉福寺洞窟

地質図の初期表示画面で眼鏡石から線路を越えて北側にある高等学校( )は佐世保西校。その東の方角にある大野中学校()の生徒が1969年に遺跡見学会に参加した際、“学校の近くにも似たような場所が・・・”と示唆したことで改めて“発見”されるに至ったのが泉福寺洞窟です。瀬戸越の住宅街の崖下、地質図では松原断層の“断”の字辺りになります。約16,000年前の世界最古ではないかと推定される土器“豆粒文土器”が発掘された場所として知られていますが、“豆粒文土器”を独立した土器の形式と看做すか否かについては諸説あるようです。この遺跡に関する研究は数多く、以下に紹介している文献はほんの一部です。

大塚達朗“豆粒紋土器研究序説”,東京大学文学部考古学研究室研究紀要 巻71989325

萩原博文“縄文草創期の細石刃石器群”,日本考古学8巻第12号,2001106

村上昇“日本列島西部における縄文時代草創期土器編年 -南九州地域を中心に-”,日本考古学14巻第24号,20071010

泉福寺洞窟


巖屋宮

巖屋宮 七言絶句のうち巖屋宮

相浦層群のうちの鹿子 (かし) (まえ)層(Am)とこれを覆う但馬岳層(Au)が形成した砂岩・頁岩質の海蝕洞が隆起したもののようです。拝殿が入口を塞ぐ形となっていることから内部に立入ることはできませんが、洞窟の間口は5.4m、奥行きは10.8m。松浦家25代隆信公の寄進を記録する石碑が収められており、慶長元丙申歳五月十八日(1596613日)の紀年銘があるそうです。寄進先は“妙見宮”。松浦家でも武を守るとされる妙見菩薩が信仰されていたものでしょうか。洞窟の前にあるのは ()戔男 (さのお)を祀る須佐神社。別称“穴妙見”。詩にある“垂迹儼然”も納得です。境内には後に平戸藩初代藩主となる長子26代鎮信公の慶長の役からの凱旋を祝って奉納された鳥居、御神木も残されています。 巖屋宮境内




福石山

福石山 七言絶句のうち福石山

相浦層群のうち但馬岳層(Au)が覆う鹿子 (かし) (まえ)層(Am)に形成された“羅漢窟”と呼ばれる間口約60m、高さ、奥行き各々4m5mほどの洞窟地形があり、水蝕もしくは海蝕洞と考えられています。延暦二十三(804)年に眼鏡石に摩崖仏を刻んで唐に旅立った空海(弘法大師)が僅か2年で仏法を修めてしまったために帰国後大同四(809)年まで入京を許されず、その間に五百羅漢を祀ったとする伝承が“羅漢窟”の名称の由来です。羅漢像はその後散逸してしまいますが、松浦静山公が天明八(1788)年に再整備したと伝えられます。詩にある“半千羅漢”は澤渡廣繁が実際に目にした景色であったかもしれません。 福石山羅漢窟

羅漢窟は佐世保時代に現在の若葉交差点から海寄りの所に住んでいた義母の遊び場の一つであったそうです。ただ、当時も“お薦さんがいたから上の方にはあまり近づかなかった”らしく、太平洋戦争後の一時期には罹災者の居住空間として利用されていて、報告書作成時点で残る羅漢像は142体のみとなっているとのことです。

福石山清嵓寺(真言宗)の前身、清巖寺も空海が諸人救済のために結んだ庵であったとされますが、それ以前にも行基( 668~749年)による和銅三(710)年の作と伝わる一刀三礼の十一面観世音菩薩像が“八竒勝図”で“大石有”る“観音堂”のご本尊として“行基岩”に祀られていました。おそらくは巖屋宮に類似の構造となっているのではないかと思われます。

福石観音


潮之目

潮之目 七言絶句のうち潮之目

杵島層群のうち大塔層下部の皆島砂質泥岩層(DL)が露出する (はい) ()町で早岐の瀬戸に設けられた石堤が生む潮の流れです。早岐の瀬戸は針尾島との間で大村湾と佐世保湾を結ぶ海峡ですが、潮之目辺りの幅は“八竒勝図”の時代で“五 六丈(15.2~18.2m)”、護岸が進められた現在は更に10m程度へと縮小しました。かつては針尾島側の名島公園に料亭があり観潮会も催されていたとのことで、潮之目に架かる橋も橋名が“観潮橋”ですが、名島も様変わりしてしまったようです。

潮之目周辺では 2019年から発掘調査が実施され、概要をまとめた長崎県教育委員会の報告書が島根大学附属図書館・奈良文化財研究所の“全国遺跡報告総覧”で公開されています。

長崎県埋蔵文化財センター調査報告書第36 - 長崎県埋蔵文化財調査年報28 [令和元年度調査分],長崎県教育委員会,2020828

長崎県埋蔵文化財センター調査報告書第40 - 長崎県埋蔵文化財調査年報29 [令和2年度調査分],長崎県教育委員会,2021831 潮之目の石組み




石橋

石橋 七言絶句のうち石橋

残念ながら、このような状態でした。

“八竒勝図”にある橋の下の“観音堂”は行基が自らの一刀三礼の十一面観世音菩薩像三体のうちの一体を本尊として開いたと伝えられる真言宗の石橋山御橋観音寺です。他の二体のうちの一体を御本尊とする長崎市肥之御 (ひのみ) (さき)の円通山観音禅寺は和銅二(709)年の創建、八竒勝の一つ福石山(清嵓寺)で行基岩に祀られる一体は翌三(710)年の行基作だそうですから、同時期の開山かと思われます。

報告書に1,400万年ほど前の深月 (ふかづき)層の地質遺産とする記載もありますが(P.90)、産業技術総合研究所地質調査総合センターの地質図で“∴御橋観音”がプロットされている箇所は、高巖同様、福井層(Fk)です。何れにせよ砂岩、頁岩の互層構造も観察することができる脆い地質で、福井層では貝化石の密集体も確認されていることから、石橋も海退によって露出した海蝕洞ではないかとされています。“八竒勝図”の図版には、おそらくは浸食によって二重構造となったと思われる弧の各々を渡る人々が描かれており、詩にも“攀躋 (はんせい)スル人”が詠まれていますが、現在は当然禁止されています。

画像は、御橋観音寺の参道の福井層の露頭です。 石橋の参道


福井洞窟と (なお) ()岩陰

御橋観音の北では同じく福井層に形成された福井洞窟と直谷岩陰を観察することもできます。右の地質図で福井層と加勢層(K)の境にある上中央左寄りの⛩が福井洞窟のある稲荷神社。直谷岩陰は吉井町の“吉”の字の下にある⛩、“天満神社”の扁額を掲げる鳥居の横に“熊野神社再建竣工記念”碑が並ぶという不思議な社の奥にあります。福井洞窟では1935年の神社改築時に縄文時代の遺構が確認され、1960年、1963・64年の調査でも先土器時代から縄文時代の遺物が出土しました。その後のものとしては市町村合併前の吉井町教育委員会が19933月に発行した発掘調査報告書を島根大学附属図書館・奈良文化財研究所の“全国遺跡報告総覧”でご覧頂けます(“福井洞窟 -駐車場建設工事に伴う範囲確認調査報告書-”,吉井町文化財調査報告書第2集)Webで報告書を閲覧することはできませんが、直谷岩陰でも佐世保市教育委員会による発掘調査が実施されており、福井洞窟と時期の重なる遺構であることが確認されているそうです。

福井洞窟の出土品は、福井洞窟ミュージアムに展示されていますが、稲荷神社の社の下はこれまでのところ調査されていないとのことです。巖屋宮、福石山も発掘調査の手が入れば、また異なる姿が見えてくるのかもしれません。

福井洞窟
直谷岩陰

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