南九州市川辺町・南さつま市金峰町

八瀬尾の滝

清水摩崖仏

河添 (こせ)渓谷

蟹ヶ地獄

高田石

薩摩塔

2023年の“石(1/4)の日”だった14日、南九州市川辺町と南さつま市金峰町の露頭を訪ねてみました。

川辺町から金峰町にかけての地質図はこちらになります。



① 八瀬尾の滝(南九州市川辺町)

地質図で錦江湾に瀬々串(鹿児島市喜入)の表示がある緯度を西に辿れば、川辺町(南九州市)から金峰町(南さつま市)にかけ東北から南西方向に走る阿多火砕流堆積物(At)の層を3本確認することができます。東側のものが野崎川、中央が万之瀬川、西側のものが長谷川の河床を形成しており、野崎川と長谷川は万之瀬川の支流です(S2sS2mは下部四万十層群に属する上部佐伯亜層群。S2sは泥岩を伴う砂岩層、S2mは砂岩を伴う泥岩層です)。

野崎川に合流する一次水流には八瀬尾の滝があります。七重八重、八重咲等にもみられる幾重にも重なる様を表した呼称ですから実際に八段を数える訳ではなさそうで、嘗ての名称は“山中の瀑”だそうです。ただ、三國名勝圖會の“山中瀑”は“下流は野崎川といふ”とあるものの、“清水村にあり(現在の地番は川辺町野崎で清水 (きよみず)ではありません)”、“懸泉二段に注ぎ下す国立国会図書館デジタルコレクション”と、どうも釈然としません。

何れにせよ、下左の画像は車道から見ることのできる最下段の () (だき)(一の滝)。二の滝も女滝の左上奥に見えています。もしかするとこれが“懸泉二段”とされた景色でしょうか。 () (だき)は女滝とは標高差150m程度の位置にある、ほぼ同規模の滝です(標高差はスマホのアプリに頼っていますから、下の画像の緯度・経度データ同様、正確性は保証致しかねます。電波の通じにくい地域です)。

八瀬尾の滝




 

② 清水摩崖仏(南九州市川辺町)

清水の大五輪塔 さて、その“清水”には、万之瀬川河床の阿多火砕流堆積物を覆った入戸火砕流堆積物(It)が浸食されて残った比高20m程の断崖が約400m続いており、そこに摩崖仏が彫られています。南薩で観察される入戸火砕流堆積物の殆どは非溶結のシラスと呼ばれる火山灰層なのですが、川辺には溶結した本質岩塊層が広範に分布しており、昨年12月に都城で開催された大木公彦先生の講演会でも紹介されていました。

溶結したとはいえ脆弱で、現在は崩落の危険性があるために立入りが制限されていますので対岸から遠望するしかないのですが、肉眼に近い下の画像でも中央右側に並ぶ大梵字等を確認することができますし、五角形の板碑の中に五輪塔が彫られた露頭もなかなかのものです。 清水の摩崖仏群




 

河添 (こせ)渓谷(南さつま市金峰町)

河添渓谷の滝と魚道 万之瀬川の溶結した入戸火砕流堆積物の河床は清水を下って長谷川と合流する手前まで続いており、万之瀬発電所の取水堰周辺でも見事な露頭を観察することができます。

長谷川の滝下の拱橋 万之瀬川と長谷川の合流は、そこから少し下った中岳の南側。南九州市川辺町ではなく南さつま市金峰町です。合流直前の長谷川には滝があり、その横の近代的な建造物はスパイラルにユニットが組立てられた魚道。魚道上部に続く道には径間4m弱、拱矢1m強と思われる小型の拱橋が架かっています。

地質図では長谷川の河床を形成する阿多火砕流堆積物が万之瀬川との合流後に東西に拡がり、自然の造形を堪能できる河添渓谷を形成しています。 河添渓谷




 

④ 蟹ヶ地獄(南九州市川辺町)

南九州市に戻りました。野崎川と合流する麓川で小野に形成されている甌穴群と渓流。地質図では川辺町と知覧町の間を北東から南西にかけて横切る阿多火砕流堆積物(上の地質図の3本のうちの東側の2本)の南端に分布している溶結した入戸火砕流堆積物です。薩藩名勝誌、三國名勝図會に“小野の瀑”についての記載はあるものの、蟹ヶ地獄を指すものか否かは不詳です。南九州市のホームぺージでは、滝壺に叩きつけられたヤマタロ蟹(藻屑蟹)の死骸が多くみられたことが名称の由来ではないかとされていますが、“小野の瀑”であるとすれば、三國名勝圖會には“拾条許りの瀑水なり、怪巖奇石縱横に堆疊し、夜刄 (ヤニ)ヶ城の瀑とも號す国立国会図書館デジタルコレクション”とあり、そこから転訛した可能性もあるのではないでしょうか。ただ、単位としての“条”も判然としませんし、さほどの落差はありませんから“滝”と認識されていたかどうかも微妙です。 河添渓谷




 

⑤ 高田石(南九州市川辺町)

こちらも溶結した入戸火砕流堆積物(It)で、川辺町高田の永里川沿いに石切場と摩崖仏が残されています。摩崖仏のうち天照大神は頴娃 脇の七兵衛による正徳元(1711)年の作。その他(聖観音・阿弥陀如来《立像及び座像》・薬師如来・大黒天・毘沙門天)は西山観音寺の和尚是珊の依頼により鹿児島の久保田太右衛門が貞享四(1678)年に彫ったもので、それぞれに銘が添えられています。 川辺高田の入戸火砕流露頭




 

⑤ 薩摩塔(南九州市川辺町)

高津 et al.2010*では、

1. 屋根(笠)・仏篭・須弥壇(須弥座)の組合せを基本構造として、壷形の亮部の中に本尊となる仏像を浮彫りにし、須弥壇の上部に高欄意匠を施して、その下に四天王を浮彫りするタイプの石塔のグループが狭義の薩摩塔、

2. 基本構造と須弥壇の意匠は同様で、壷形の亮部の中を割り抜き本尊を別造りとする“類薩摩塔”を含めたグループが広義の薩摩塔(薩摩塔類)、

3. 中国の類似石塔を包括した屋根(笠)・仏亮・須弥壇(須弥座)の組み合わせを基本構造とするタイプの石塔のグループが“霊鷲寺型石塔”、

水元神社の薩摩塔 とされており、須弥壇には六角のものと四角のものがあります(“類薩摩塔”は六角基調型のみ)。

堆積性の凝灰岩で、薩摩塔が分布する地域(長崎、鹿児島、福岡、佐賀各県の一部)で採掘できる石材ではありません。特殊な形状に加えて仏相の印象や四天王の装束等もあり、従来より渡来ものではないかと考えられていました。高津 et al.2008**では可能性が考えられる中国の石材として湖成層(方岩組地層)に挟在する凝灰岩層である浙江省の梅園石が例示され、 虎御前供養塔 大木 et al.2009***に拠れば、南さつま市の坊津歴史資料センター輝津館所蔵の薩摩塔と梅園石の試料の主成分化学組成をエネルギー分散型X線分析装置によって処理した結果、両者のX線回折パターンは一致。試料とした薩摩塔と梅園石が同一岩体から採取されたことを支持するデータを得たとしています。大木 et al.2010****では、長崎県大村市立福寺町の龍福寺跡薩摩塔についても、同様のX線回折パターンを確認できることが示されました(“「薩摩」塔”の名称は初期に確認された遺構が鹿児島県内のみであったため地域固有の形状ではないかと考えられてしまったことによるもので、実際には長崎県に最も多く分布しています)。

左上は神殿 (こうどの)にある虎御前供養塔。四角型で、相輪部が失われた層塔の塔身に小型の狭義の薩摩塔を載せたようにみえます(こちらのリンクで宝珠部をpop-up表示します)。大磯の虎が曾我兄弟の菩提を弔うために諸国を行脚し九州にも立寄ったという伝承は志布志市の大磯の虎ヵ石、佐賀県小城市の殿の腰掛石に残されていますが、ここでは虎のほうが供養されているようで、なかなか珍しいパターンではないでしょうか。

*高津孝・橋口亘・大木公彦“薩摩塔研究 - 中国産石材による中国系石造物という視点から”,鹿大史学57巻,201021

**高津孝・橋口亘“薩摩塔小考”,南日本文化財研究7巻,2008530

***大木公彦・古澤明・高津孝・橋口亘“薩摩塔石材と中国寧波産の梅園石との岩石学的分析による対比”,鹿児島大学理学部紀要42巻,200911

****大木公彦・古澤明・高津孝・橋口亘・内村公大“日本における薩摩塔・碇石の石材と中国寧波産石材の岩石学的特徴に関する一考察”,鹿児島大学理学部紀要43巻,20101130

この他にも以下のような文献も公開されていますのでご参照ください。

高津孝・橋口亘・大木公彦“薩摩塔研究(続):その現状と問題点”,鹿大史学59巻,201221

大木公彦・古澤明・高津孝・橋口亘・大石一久・市村高男“薩摩塔石材と中国寧波市の下部白亜系方岩組地層との対比”,鹿児島大学理学部紀要46巻,20131230

 

<オマケ>

水元神社の田ノ神さぁ 水元神社の境内で薩摩塔の並びに祀られているスターウォーズで見たことがあるような気のするファンキーな遺構。“御田神”と刻まれていることに気付かなければ、とても判別できるとは思えないシュールな田ノ神さぁです。原型を推測しても仕方がありませんけど、嘉永五壬子(1852~3)年の紀年銘が前向きということは、もしかして裏返しに祀られているのでは・・・。

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