桜島

桜島と桜島大根を見上げるタヌキ

鹿児島県地学会202112月巡検 ~京都大学防災研究所 火山活動研究センター~

大正噴火の爆發紀(記)念碑など

大正噴火の被害を残す遺構

安永の噴火の記録

地質遺産のいくつか



鹿児島県地学会202112月巡検 ~京都大学防災研究所 火山活動研究センター~

井口先生と大木先生 202112 月の鹿児島県地学会見学会は桜島横山町の大正溶岩原にある“国立大学法人京都大学防災研究所附属火山活動研究センター桜島観測所”でした 。テレメータ室、データ処理室、研究室等を備えた研究・観測棟と火山表面現象の観測に使用される別棟の観測塔より成る施設で、 1955年から南岳で始まった爆発的噴火活動が長期間継続することを想定して1960年に設立された桜島火山観測所が前身です。

お話を伺うことができたのは現所長の井口正人教授。鹿児島の防災・火山情報報道ではお馴染みですし、NHK20166月に放送された“ドキュメント72時間 - 火山の島 フェリーにゆられて行ったり来たり”編でもお見かけしてしまいました。

番組の映像は同年3月末から4月にかけての72時間のものでしたが、多少の降灰もあった桜島の様子も記録されていますし、県外の方々との火山耐性の差が窺えるという意味でもなかなか面白い放送でした。鹿児島に住んでみなければ、3,500m程度の噴煙を見て“普段より揺れたかなぁ”と流しながら風向きのほうを気にする感覚は理解できないと思います。個人的には、四川料理がどのように日本人に合うように改変されてきたかを知りたくて留学して来たという中国のお嬢さんのその後に興味がありますけど。

ただ運の悪いことに巡検の日(5 日)が“ランニング桜島”というイベントの開催に重なり、コースの一部となっているセンター本館前の道路にも交通規制が敷かれるということで、観測坑道行きは見送り。本館で山頂爆発直前予知システムの画面を見ながら、水槽に浮かべられた変位センサー付きの 2基のフロートの位置からマグマの膨張により生じる地殻の傾斜を測る水管傾斜計、固定された28mの熱膨張係数の小さい基準尺との誤差をセンサーで読取り地盤の膨張・伸縮を測る伸縮計のメカニズムをご説明頂くということになってしまいました。現物を見ることができなかったのは残念ですが、火山噴火予知連絡会資料にあるデータや、桜島関連の論文で紹介されている現象が目の前のモニターにリアル-タイムで記録されていくのを確認できるというのはなかなか得難い体験です。観察坑道見学については来年春の巡検で再設定を検討してくださるとのことで、捲土重来に期待です。

桜島で発生する爆発的噴火、火砕流については、

IGUCHI, Masato・GAMEGURI, Takeshi・OHTA, Yusaku・UEKI, Sadato・NAKAO, Shigeru“Characteristics of Volcanic Activity at Sakurajima Volcano’s Showa Crater During the Period 2006 to 2011(桜島昭和火口噴火活動期における火山活動の特徴について:2006~2011年)”,火山 581号<桜島特集>,2013329

IGUCHI, Masato“Magma Movement from the Deep to Shallow Sakurajima Volcano as Revealed by Geophysical Observations(地球物理学的観測によって明らかになった桜島火山の深部から浅部へのマグマの動き)”,火山 581号<桜島特集>,2013329

為栗健・井口正人“桜島火山昭和火口で発生する火砕流の特徴”,京都大学防災研究所年報第61B20189

等があります。

教授のお話を伺うことができたのは交通規制が敷かれる10時を目処にという限られた時間だったのですが、たまたまインドネシアでスメルの火砕流が発生するというタイミングだったこともあって話題は広範に及び、何れもが興味深いものでした。

その中でも印象に残ったお話を一つ。

山頂爆発直前予知システムのモニターでは、火砕流が南西方向に1,300m流下した2018616日と噴石が火口から3.3kmの地点で確認された202064日の南岳の噴火前後のデータがプロットされている画面を例として、山体が膨張してくれば噴火は近く、変動量によって噴火の規模を知ることもできるということをご説明頂きました。最近では913日に山体膨張が観察され始めていますが(福岡管区気象台・鹿児島地方気象台“桜島の火山活動解説資料(令和311月)”)、通常、山体膨張の開始から爆発的噴火迄のタイム-ラグは短ければ5分、最大で1週間。観察され始めてから既に2ヵ月半が経過している足下の山体膨張は“賞味期限切れ”ではないかとのことです。

80年代には標高830m辺りにあった南岳の火口底は、その後深度を増し、現在A火口で標高500m程度の位置にあります。火口底に近いマグマは明らかに密閉された状態にはなく、脱ガスが進むために揮発性成分は失われていく、つまり“浅いところにまで貫入してきたマグマには賞味期限がある”とのことでした。

南岳1984年噴火の噴石 ということで、早々に研究所を後にして大木先生にご案内頂いての桜島巡検。1984年に南岳山頂火口から噴出した推定4tの噴石が保存されている東桜島合同庁舎の構内を起点とする有村海岸にかけてのコースだったのですが、見学会の予習を兼ねて確保してきた画像も手元にありましたので、覚書としてまとめて残しておきます。以下、見学会で大木先生にご案内頂いた有村海岸の情報を除き、1117日付となっています。



大正噴火の爆發紀(記)念碑など

旧櫻洲小学校跡地碑 桜島横山町の京大桜島観測所からほど近い場所には嘗て旧櫻洲小学校がありました。大正の噴火で埋没し桜島小池町に移転再建されましたが、跡地に三基の碑が建てられています。中央は第一期卒業生個人名での桜洲尋常・高等小学校埋没跡碑。左は噴火50年後の昭和三十九(1964)年の鹿児島県知事銘の碑。右は昭和四十六(1971)年の卒業生による碑で“桜島の開発につれて古い碑が埋もれていく”とあります。50年碑から7年後ですから、降灰等の物理的な火山被害ではなく記憶が薄れていくことを嘆いているかに思えます。

旧櫻洲小学校の悲劇は、小学校の移転先となった桜島小池町にある小烏神社の大正十四(1925)年の紀念碑にも記録されています。下左の画像がその碑で、後ろの木の奥が現桜洲小学校です。画像をクリックすれば碑文がpop-upで表示されます。

小烏神社の旧櫻洲小学校碑
東桜島小学校の櫻島爆發記念碑
桜峰小学校の櫻島爆發記念碑

櫻島爆發紀念・記念碑タイトル


上の画像のうち右側にある他の二つも島内の小学校に残されている碑ですが、小学校自体の悲劇が記録されている訳ではありません。中央がおそらくは最も有名な東桜島小学校校庭に残されている“科学不信の「記」念碑”。“・・・村長ハ數回測候所ニ判定ヲ求メシモ櫻島ニハ噴火ナシト答フ・・・住民ハ理論ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス・・・”。 “理論”は碑文の依頼を受けた鹿児島新聞(現南日本新聞)の牧暁村記者の判断による忖度から“測候所”を暗喩するものとなったとされています。旧東桜島町民が測候所に対して抱いていた拭い難い不信感については、野添武志“桜島爆発の日 大正三年の記憶(南日本新聞社,201212月<改訂増補版>)”に詳しく、東桜島村(1950年に鹿児島市に編入)とは行政区が異なりますが、大正噴火時の桜島の状況が詳しく記録されている桜島町(旧西桜島村。2004年に鹿児島市に編入)の郷土誌第三編 現代 - 第七章 噴火 - 第二節 大正三年の大噴火,桜島町郷土誌編さん委員会,1988325日)にも初刷版の一部が引用されています。そのうちの“桜島爆発記念碑建立余話(野添八重蔵氏の談話より)”に拠れば当時の東桜島村川上福次郎村長は測候所の判断に基き避難自重を促したことが被害の拡大をもたらしたことを激しく悔い、“測候所の判定に従わないで、自分たちの判断で避難するように強調”する碑文を刻んだ記念碑を在職中に建立することを悲願とされていたのですが、被災後の復興と財政再建に忙殺され、それを叶えることなく他界されます。後任の野添八百蔵村長は、川上前村長の無念を汲むべく記念碑建立を村議会の議案の一つとして提出。“測候所の判断には決して従うことなく、急いで避難せよ”という文言を碑文に盛り込む方向で採択されました。にも拘わらず碑文にこの表現はなく野添村長も牧某に問いただしたようですが、人に頼んだ手前、不満も言えず、旧東桜島村の民意を正確に反映していない当事者の遺恨を残した残念な遺構となっています(太字部は引用)。

上の画像は、クリックすれば碑文がpop-up表示されます(桜峰小学校の碑は一部)。

若宮神社の櫻島爆發紀念碑

この他に大正の噴火の惨禍を伝える碑が残されているのは有村の若宮神社。こちらも画像クリックで碑文の一部をpop-up表示する仕様としました。

若干色合いの異なるものとしては烏島展望台の碑があります。烏島は一説に野尻で噴火が発生した文明七年八月十五日(1475924日)、沖島と共に一夜にして湧出したとされる島ですが薩藩名勝志,鹿児島県立図書館蔵)439年後に大正噴火によって埋没し、桜島の一部となりました。薩英戦争時には存在していましたから、“薩英戦争と薩摩の臺場”のページで参照している薩藩海軍史 中巻(侯爵島津家編輯所,薩藩海軍史刊行會,1928Google Booksにある開戦時(1863815日)の英艦停泊位置推定図にも描かれています。

12月の京大防災研での井口教授のお話は足下で頻発している吐噶喇列島の地震への言及もあったのですが、“あの辺りに島が1つ増えてもいいじゃないですか”的スタンスでした。

1951118 日に建てられた碑は東京大学坪井誠太郎教授・鹿兒島大学有田忠雄助教授によるもので、碑文に“烏島ハ高サ約二十メートル周囲凡ソ五百メートル玄武岩質岩石カラ成ス島デアッタ 烏島の碑 大正三年「西暦一九一四年」一月十三日桜島西腹カラ流出シタ熔岩ハ十八日遂ニ此ノ島ヲ埋没シ終ッタ 茲ニ碑ヲ建テテ其ノ跡ヲ示ス 碑ノ建設ハ先ニ東京帝国大学名誉教授小藤文次郎並ビニ第七高等学校教授阿多実雄両故人ノ計画シタ所デアッタ 今其ノ実現ヲ見ルニ至リ由来ヲ記ス”とあります。小藤文次郎名誉教授は、桜島の大正噴火の経緯を記録した 5冊のスケッチ・ブックが含まれる小藤文庫を東大理学部地質学教室(現地球惑星科学科)に残された東京帝國大學地質学科唯一の第一期生であり重鎮ですが、隔靴掻痒の感を否めない碑文が名誉教授の意図されていた内容となっているかどうかは不明です。



大正噴火の被害を残す遺構

腹五社神社の埋没鳥居は、大正噴火の被害を伝える遺構のうち最も有名なものかと思われます。かつての黒神は天平宝字の噴火(764~766年)で噴出した長崎鼻溶岩の上にあった集落ですが、687戸が大正の噴火の噴出物に埋もれました。鳥居は、長野氏旧宅の門柱と共に、当時の東桜島村村長 川上福次郎氏の英断により惨禍を後世に伝えるために埋没したままの形で残されています。噴火によってのみ埋没した訳ではなく、低地にあるために後の降雨で流された噴出物が堆積した地区です。

腹五社神社については来歴等が詳らかではありませんが、安永の噴火(1779~82年)時に鹿児島市吉野町上之原に移住した島民の末裔が安政三(1856)年に勧進して地名に因む名で祀った社が原五社神社(吉野町6648)であるとする言い伝えがあり、御祭神は瓊瓊杵尊、木花開耶姫命、彦火々出見尊、鵜萱葺不合尊、玉依姫命です(縁起には異説もあります)。大正噴火時の移住先の一つで“櫻島爆發移住記念碑”のある大根占(錦江町)桜原の桜原神社も、かつては黒神の腹五社神社を勧進した黒神五社神社でした。 黒神の埋没鳥居と旧長野氏宅門柱

測候所の判断に基き避難自重を促したことが被害の拡大をもたらす結果となってしまった川上村長の忸怩たる思いを汲んで後任の野添八百蔵村長が噴火10年後に建立したのが先の東桜島小学校“科学不信の「記」念碑”です。

埋没鳥居は対岸の垂水市牛根の稲荷神社にも残されています。

牛根稲荷神社の埋没鳥居 天正二年一月十九日(1574220日)、肝属氏によって安樂備前守が配されていた牛根城が落城します。島津家十六代義久公の大隅平定の年で、この戦の後、伊地知重興、肝属省釣(兼続)も島津に降りました(西藩野史,国立国会図書館デジタルコレクション。稲荷神社は義久によって地頭に任じられた伊集院(魯笑齋)久道が同年九月十三日(107日)に祀った社で鳥居は一丈一尺五寸(≒3.485m)ありましたが、垂水を地続きとした大正の噴火で完全に埋没。上部約1.45mのみを掘り出した姿で保存されています。黒神の腹五社神社のものとは異なり笠木は左右2つの部分を組合わせる造りで、ズレは噴火時の地震によるものかと思われるものの、詳細は不明です。



安永の噴火の記録

七社神社古里村燒死二十名之墓碑 安永の噴火は1779年から1782年にかけて発生した一連のプリーニ式噴火で、安永軽石の噴出量は大正軽石の .5km3(マグマ換算 .2DREkm3)に対し .3km3(マグマ換算 .12DREkm3)と推定されていますが(溶岩を勘案せず爆発的噴火の規模を測る火山爆発指数(VEI:Volcanic Explosivity Index)は何れも4です)、溶岩を含むマグマ換算での総噴出量は1.85DREkmで噴火マグニチュードは5.7。大正噴火の1.54DREkm5.6を上回る規模でした1万年噴火イベントデータ集,産総研地質調査総合センターDRE: Dense Rock Equivalent)。“桜島町郷土誌”に“桜島燃記録”、“薩隅日地理纂考国立国会図書館デジタルコレクション”の記録がまとめられています。

垂水市海潟の櫻嶋焼亡塔 島内にある遺構は、157人の犠牲者のうち20 名を祀った“古里村燒死二十名之墓碑”で、七社神社の境内にあります。

対岸の垂水市海潟の菅原神社に残されているのは“櫻嶋焼亡塔”。“安永十年辛丑五月四日(1781526日)”と火山活動継続の最中の銘のある供養塔で、桜島からの避難の途中に海上で被災した犠牲者を弔うために松岳寺(廃寺)に祀られました(当時の桜島と垂水は陸続きではありません)。碑文は垂水島津家家老の市川鶴鳴によるものとされ、残された部分の碑文は比較的明瞭に判読することができるものの、碑の下部が大きく欠損しています。鶴鳴は尾張から招かれた高崎の儒学者のようですが、垂水ではさほど人望を得られなかったらしく後に転出していますから、碑が顧みられることもなかったものでしょうか。

今年(2021年)は大正噴火から106年目ですが、安永の噴火から大正の噴火までの間隔は132年でしかありません。下のグラフは、桜島で確認されている17回のプリーニ式噴火のうち5回目の高崎噴火からの過去1万年の累積噴出量をマグマ換算で示したものですが、その間の噴出量の約1/4が安永・大正の噴火が発生した2,000年までの足下の250年間に集中しています。

桜島火山のマグマ換算噴出量累計


大柳 et al.2020*は、2018年までの約20年間のデータに基づき、姶良カルデラ中央部の海抜下10.5kmに年間+800m3の膨張源、桜島南岳直下3kmに同▲35m3の収縮源の存在を想定すれば、この間の地殻変動を再現できるとしています。また、この間の重力変化を再現するためには、桜島中央部海抜下3.2kmの位置に年間1,900tのペースでの質量増加が必要となるとし、風間 et al.2020**は、大正火口付近で20066月の昭和火口活動再開以降に観測された年率最大4.7mGalの重力増加がこの想定と整合的であるとしています。

桜島の入山規制レベルは20151125日、約5年ぶりに“2(火口周辺規制)”に引下げられましたが、翌201625日に再び“3(入山規制)”に戻され、202112月現在もその水準が維持されています***

5年ほど前までと比べれば多少は活動が落着いてきたような印象はありますが、種々の観察結果をみれば桜島火山の質量増加は続いていると考えられます。

 *大柳諒・風間卓仁・山本圭吾・井口正人・岡田和見・大島弘光“繰り返し相対重力観測で明らかになった桜島火山における1990年代以降の重力時空間変化”,令和元年度 京都大学防災研究所 研究発表講演会,2020220 B11

**風間卓仁・山本圭吾・大柳諒・岡田和見・大島弘光・井口正人“桜島火山における繰り返し相対重力測定(20195~20203月)”,京都大学防災研究所年報 第63B202012


***2022724

(株)財宝公式チャンネルからのキャプチャー画像 気象庁は入山規制レベルを一挙に“5”へと引上げました。205分に噴石が火口から約2.5kmの地点に達する爆発が発生したことによるもので、南岳山頂火口、昭和火口3km以内の居住地域である鹿児島市有村町と古里町の一部には“厳重な警戒(避難等の対応)”が呼びかけられています。

2014927日の御嶽山噴火を巡る裁判で、長野地裁松本支部が当時の気象庁の判断などを“15分から20分程度の検討で安易に地殻変動と断定できないとの結論を出し、レベルを引き上げないと判断した対応は問題。注意義務を尽くしたとはいえず、漫然とレベルを据え置いた判断は、その過程と結果において限度を逸脱して著しく合理性に欠けて違法”とした判決が今月13日に出たばかりというタイミングで(判断の違法性と被害の因果関係は認められず、賠償請求は棄却されています)、気象庁が過敏に反応した可能性もあるのではないかと考えられますが、どうも“<逆>住民ハ理論ニ信頼セズ”状態を醸成しかねない状況となりつつあります。

京都大学 井口先生、鹿児島大学 井村先生のご見解、NPO法人 桜島ミュージアム様を始めとする地元の方々が今回の決定に感じておられる違和感についてはSNS等で発信されています。県民の実感と気象庁に対する感情をお知りになる上でご参照ください。

2022727

2000分、気象庁の入山規制レベルは“3”へと戻され、島内33世帯51人を対象とする避難指示も解除されました。“南岳山頂火口及び昭和火口から2kmを超えて大きな噴石が飛散する噴火が発生する可能性は低くなった”との判断に基づくもののようですが、“でしょうねぇ・・・”としか・・・。

今後も噴石が2.4kmを越えて飛散すれば全般の状況を勘案することなく自動的にレベル5が適用されるようで、“<逆>住民ハ理論ニ信頼セズ”を定着させる方向に舵をきったようです。先日の判決が相当堪えているのでしょう。

20231018

御嶽山噴火に関する長野地裁松本支部の判決を不服とする遺族の控訴を受け、東京高等裁判所での二審が始まりました。



地質遺産のいくつか

有村海岸の大正I期二次溶岩 ① 有村海岸<地質図

右の画像は鹿児島県地学会202112月巡検で大木先生にご案内頂いた有村海岸の大正I期二次溶岩(T1)露頭です。海岸そのものが地熱帯で、右の画像で先生がご覧になっている先にも噴気孔があるようです。砂浜を掘るだけでお湯が湧き出すスポットで、桜島ビジターセンターで“温泉掘りセット”を購入して“My 足湯”を楽しむこともできます。

下の画像は右がその海岸での小講義。先生の右後ろ、大観橋手前に見えているのが昭和溶岩(S)で、左(西)側に目を移せば古期南岳噴出物に属する宮元溶岩(Mm)の露頭。上の大正溶岩が右(東)側にあり、正面は桜島火山という時代を超えた一大パノラマです。

まぁ午前中にお邪魔した京大桜島観測所の井口教授のお話ではこれだけの規模のカルデラの中で現役で噴火している活火山が桜島しかないこと自体が不思議な事象でしかなく、いずれは消滅して新たな桜島に取って代わられる運命であろうろうとのことです。地球史カレンダー・スパンでのお話ですけど。火口底が上昇するような状態となれば、南岳の活動も活発化することになるのでしょう。 有村海岸での大木先生の小講義

地学会の見学会に先立っての個人的な11月の桜島周遊は、災害の記憶を訪ねることを主な目的とするものだったのですが、紀/記念碑・遺構を辿るルートから少し逸れれば桜島火山の活動を記録した露頭も豊富なので、折角ですから所々でそちらも確認しており、以下がその覚書となります。

袴腰下の露頭 ② 袴腰下<地質図

右の画像は桜島横山町の京大桜島観測所から北東に275mほど進んだ突当りから左に入ったところにある生活道路の露頭です。振向いて撮影した画像ですので右手が研究センター観測所方向となり、こちらの地質は大正噴火初期の19141月に南岳西側山腹火口から噴出したI期溶岩(T1)。有村海岸にも露頭のある二次溶岩を含む噴出量は .25km3でした。

左手は袴腰の城山。姶良カルデラ噴出物が形成した台地で、露頭は流紋岩軽石、礫を含む火山灰層(Pf)ですから、道路の右側と左側では地質年代で24,000年ほどの差があります。複式火山としての姶良カルデラの歴史を感じさせる小径です。 袴腰下の入戸火砕流堆積物と桜島溶岩

③ 文明II期溶岩

1471~76年の文明噴火(火山爆発指数(VEI4、噴火マグニチュード5.3)の噴出物のうち文明II期溶岩(B2)。I期を併せ溶岩流の噴出量は .49km3ですが、.8km3(マグマ換算 .32DREkm3)の降下火砕物・火砕流を伴うマグマ噴火でした。野尻港(2番避難港<地質図>)からの燃崎と宇土港(9番避難港<地質図>)の露頭です。11月も半ばを過ぎ、ようやく鹿児島でも紅葉を楽しめる季節になりつつあります。文明の噴火では沖島と大正の噴火で埋没して桜島の一部となった烏島も湧出したとされています 文明噴火噴出物

④ 古期南岳噴出物

有村港の宮元溶岩 有村港(7番避難港<地質図>)の宮元溶岩(Mm)の露頭は有村海岸からの延長です。下村港(5番避難港<地質図>)も西側(下左の画像)は宮元溶岩ですが、東側(下右の画像)はこれを覆う観音崎溶岩(Mkn )。何れも古期南岳噴出物の斜方輝石/単斜輝石安山岩で、宮元溶岩が 4,000年前、観音崎溶岩が2,700~3,700年前の活動によるものと推定されています。マグマ換算噴出量、噴火マグニチュードは宮元で各丶.46DREkm35.1、観音崎で.32DREkm34.9でした。 下村港の露頭

⑤ 塩屋ヶ元港(8番避難港)<地質図

沖に向かって左(北)側は1946年の昭和溶岩(S:火山爆発指数(VEI2、マグマ換算噴出量 .18DREkm3、噴火マグニチュード4.7)、右(南)側は764~766年の天平宝字の噴火(火山爆発指数(VEI4、噴火マグニチュード5.3)で噴出した長崎鼻溶岩(Ng:マグマ換算噴出量 .84DREkm3[1]。左右で1,200年ほどの差があります。 塩ヶ屋元港の露頭


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[1] 續日本紀 第二十五巻(国立国会図書館デジタルコレクション)には天平寶字八年十二月(7641231~765129日)の出来事として、

月。西方聲有。雷。時大隅薩摩兩國之堺烟雲瞑冥。奔電去来。七日之後乃天晴麑嶋(カゴシマ)信爾ノ村之海。沙石自(アツマ)。化三嶋。炎氣露エテ。冶鑄之形成スガ連望スレハ四阿之屋タリ。嶋埋被ル丶者。民家六十二區。□八十餘人。

との記載があり、幕末に臺場が置かれていた()(こが)(しま)は天平宝字噴火によって現れた隼人町沖の隼人三島の一つであるとする説もあります(他は辺田小島と弁天島)。広く支持されている訳ではないようで、これについては大木公彦“鹿児島湾の謎を追って(鹿児島文庫61,春苑堂出版,2000620日)”の“隼人三島と天平の海底噴火”の章もご参照ください。


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