潟口船溜り

潟口の船溜り 天保141843)年、島津家27代斉興の代の二反田川河口改修工事に際し、調所広郷の進言によって肥後から招かれていた石工岩永三五郎等によって設営された船渠です。増築の規模は330間(600m)。字宮に至る二反田川25町(≅2.73Km)、及び排水用閘門までの五間川沿いもこの時に整備されています[1]

潟口から湊の濱崎家界隈までは水路で結ばれていました。島津家別墅は寛政51793)年に長井温泉に造営されましたが[2]、密貿易で島津家の財政再建を支えた政商濱崎家の邸宅にも島津氏御座ノ間があり、ここに向かう際にも、この水路が利用されたと思われます。

潟口と湊を結んでいた水路跡 照國公(島津斉彬)指宿八景御詠のうち“南浦帰帆[3]”は、現在の指宿港辺りからの景色を詠んだものとすることが無難であるとは思われるものの[4]、“幸”は漁獲量で測られる“恵み”であるとは限らず、船溜りに荷揚げされて湊の蔵まで水路で運ばれる島津家御用の積荷であった可能性もあるのでは、と考えるのは下司の勘繰りでしょうか。

船溜りの石垣は布積みですが、五間川の両岸と水路跡は谷積みとなっています。何れも阿多カルデラ由来の荒平石です。天保の改修工事の遺構は、二反田川沿いにも部分的に残されています。

潟口の船溜りの石組み 五間川の護岸壁の石組み






[1] 船溜り一帯は、かつて“汐入”と呼ばれた湾入で、天保の改修工事までに3次にわたる干拓・埋立工事が実施されたことで、現在の地形となりました。当初は塩田開発を目的としており、“塩屋”、“塩浜”といった字名が残っています。その後、目的は耕作地の確保へと移行し、字“一番掛込”、“二番掛込”は、初期の開墾地であったことの名残です(鹿児島県維新前土木史,鹿児島縣土木課,1934年)。
[2] 天保21831)年に()月田(がつでん)に移設されました。船溜りから二月田の別墅までは、舟を馬に曳かせて二反田川を上ったとされています。
[3] おひて吹く 風にまかせて帰る也 いづれの舟か 幸の多かる
[4] 濱崎家の造船所の所在地は明らかではありませんが、湊に東西38間(≅69.1m)、南北57間(≅103.6m)の規模のものが設けられていたと伝わっています。船場には材木小屋、鍛冶小屋、船大工の住宅も備えられていたようですから、仮にこれが濱崎邸(現 ㈱NTTフィールドテクノ事業所ビル)最寄りの場所にあったとすれば、“御座ノ間”の見晴らしはさほど良いものではなかったと考えられます。“南浦帰帆”を見るためには海岸に出る必要がありますが、船場には海辺までの木柵が張り廻らされていたようです。
旧濱崎邸の前の道を海岸に出て、北に110m(≅602尺)ほど進めば太平次公園の南側です。戦前まで、この辺りでは和船が建造されていたとのことです。とすれば、造船所に遮られずに視界が開けるのは、現在の指宿港防波堤の内側、現在の太平次公園の北側です。

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