余談:清見城と餓死(ヵ)御前 |
清見岳溶岩(lkm)は、池田湖に面した松ヶ窪側からの登山道、急崖を臨む県道247号(東方池田)線で露出が確認できる斜方/単斜輝石デイサイト溶岩です。ただ、松ヶ窪コースは結構チャレンジングですから足下には充分にお気を付けください。川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅 - 鹿児島(15)第100号)”で採用された試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有量は、こちらからpop-up表示される図に示す比率となっています。
以前は5,600年前の池田火山噴火によって形成されたと考えられていたようですが、5万3,000年前に噴出した清見岳テフラに覆われていない一方で、5~3万年前に噴出したと推定されている池底溶岩が池田湖側急崖に流出していることから、その間に形成されたと考えることが妥当でしょう。こちらは国土地理院の湖沼図<池田湖>の清見岳側。新永吉側の湖底は清見岳溶岩に覆われる権現山成層火山体(lgy)。その南で池田湖に流下しているのが池底溶岩(liz)です。
石嶺側からの登山道はなだらかで、頂上の700m程度手前にある、清見城址の縄張り内の溶岩洞窟を利用して祀られたと伝わる日照仏神社(ひぼっけどん)で、柱状節理をもつ岩塊を観察することができます(画像クリックで拡大表示されます)。祭神等は明らかではありませんが、時代の異なる馬頭観音が複数祀られており、石嶺の煙草神祠も合祀されました。昭和初期までは火の玉が飛翔する現象がみられた、天狗伝説もある山です。
こちらは清見岳山頂からの眺望です。
平姓穎娃氏は、島津家初代忠久が河邊忠長を穎娃に封じて以来の一族でしたが、島津家7代元久が應永四(1397)年に谷山郡司入道佛心を攻めて谷山、給黎(喜入)、揖宿、穎娃を得た後に穎娃憲純が謀叛したことで征され、弟久豐が穎娃に封じられます(“南殿”と称される所以です)。久豐は應永十(1403)年に日向國穆佐に移城。穎娃氏一族の小牧氏が穎娃氏を名乗って後を任せられるのですが、この穎娃氏も應永廿七(1420)年に島津氏に叛きました。島津家は既に久豐の代で、奈良氏兄弟が追放された揖宿の争乱の翌年です。
この時、穎娃(小牧)氏は清見城に池田信濃守を配しており、久豊の養子である肝屬兼政(重忠)と佐多親久連合軍の前に落城して池田家の姫にからむ悲話を残すことになります。母親と、許婚であった家老の息子と共に城を出て池田湖畔の洞窟に潜み、落城を知った後、一族の菩提を弔うために地蔵像を刻んだ末に餓死したと伝えられる餓死(ヵ)御前です。“刻み地蔵”は名称が凄惨ですが、“磨崖仏”のことで、切り刻まれた人が祀られている訳ではありません。柱状節理のある凝灰質安山岩の亀裂に残されており、池田湖火山灰層が堆積した地域のため地盤が脆く、崩落の惧れがあることから洞窟内部での拝観はしばしば制限され、この画像も外側からのものです。
姫にはお気の毒ですが、江戸時代初期の遺構と推定されています。
勝敗を決したのは夜襲であったかもしれません。
三國名勝圖會には、
土人の傳へに、往昔いつれの代にや、淸見某が出丸なりしを、肝付氏が軍兵、風雨の夜、暝冥に乗し、城南岸崖の松樹に鎌を掛けて、城に登り、遂に是を陥る、近世までは、鎌掛松と唱へし古松樹ありしとぞ、
とあります(巻之二十一 二十一,国立国会図書館デジタルコレクション)。
随分と曖昧ですが、淸見某は池田信濃守、肝付氏は肝屬兼政でしょうか[1]。清見岳南側(池田湖側)の断崖は、このページの最初の清見岳溶岩の画像をクリックすればご覧になれます。魚見岳の項で紹介している清見岳から飛翔してくる鬼火にも、“今和泉清見カ城ノ城主池田信濃守カ靈”説があったようです(揖宿古主略考[2])。
平姓穎娃氏滅亡後に頴娃、指宿を与えられて穎娃を名乗ったのが、清見城を攻めた兼政が初代となる肝屬氏庶流の伴姓穎娃氏です。頴娃に獅子城(野首城)を築城した兼政によって、清見城には弟光忠が配されました。
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