周辺の史跡①:九郎冢(塚)・瀨宋法院冢(塚) |
周辺の史跡②:枚聞神社 |
周辺の史跡③:玉乃井 |
鏡池は開聞仙田にある周囲約600m、最深部14mの湖。薩藩名勝志(鹿児島県立図書館蔵)の挿絵に添えられる信輔公の歌には池に浮ぶ一羽の鴛が詠まれていますが、現在は周辺への立入が制限されている絶好の水鳥観察ポイントです(信輔公御詠は、コピペ版の三國名勝圖會図版からは削除されています)。水無池は、鏡池を350mほど南西方向に進んだところにあるマールで、こちらには水がありません。奥野・小林(1991)[1]は、鏡池東側の灰白色火山灰層の露頭を鏡池もしくは水無池由来と考え、これが5,600年前の池田湖火山灰層と4,300年前の鍋島岳テフラ層の間にあることから、何れもその間に活動した火口の跡としています。
マールは地質図では赤線で囲む形で表示されていますが、鏡池、水無池の他に鍋島岳の東側のマークが水源地マール。西側で上野の“野”の字の下にあるのが大底月マール、鍋島岳溶岩(Nbd)と重なって見えづらくなっていますが“野”の字の右上のものが小底月マール。これらは総称して鏡池マール群と呼ばれています。但し、奥野・小林(1991 )は、小底月、大底月は鍋島岳溶岩、水源地は鍋島岳テフラ層を破壊して形成されたマールであることから、鏡池、水無池よりも新しい、鍋島岳成立以降の地形であるとしています。
尚、水無池は土木・造成等事業者さんの所有地であり、残土処理場として利用し埋立てられる予定となったことから、2021年6月に学術的価値の確認調査が実施されました(指宿市教育委員会“指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書68”,2022年3月)。ただ、埋立られる前最後の機会ということで、鹿児島県立博物館による水無池マール内部に堆積するテフラの調査も実施され、それまで目立った研究成果のなかった鏡池・水無池マール噴出物の構造と層序が明らかになっています。それに拠れば、水無池テフラは池田湖火山灰の上位にあり、鍋島岳テフラの下位にある鏡池テフラに覆われています。何れも軽石・岩片を含む火山灰層ですが、鏡池テフラには、水無池テフラで確認できる角閃石が含まれていないそうです[2]。
残土処理場としての利用に向けて整地された2022年8月時点の水無池の画像はこちら。火口縁下2~3m辺りまで埋立てが進んだ時点で事業終了届が提出されるとのことです。
かつては現在の水無池が鏡池と呼ばれていたという言い伝えがあります。
嘉吉三(1443)年の六月朔日(新暦7月7日)、枚聞神社別当寺の開聞山普門寺瑞應院の阿闍梨快雅の弟子千壽丸が当時の鏡池で溺死しました。多門寺の律師快財が快雅の命を受け池に戒壇を設けて護摩行を行ったところ、天地が鳴動して瞬時に水が涸れてしまったそうです[3]。ジャンヌ・ダルク刑死の12年後、籤引きで選ばれた足利6代将軍義教が赤松満祐に謀殺された嘉吉の変の2年後です。
これにはお伽噺バージョンもあります。
鏡池で和尚様のために蓮の花を摘もうとしていた千壽丸が足を滑らせてしまいます。弟子の知らせで駆け付けた住職が読経を続けると池の水が巻き上がり、現れた池の底に千壽丸の亡骸を囲む河童が・・・。和尚は、この先悪戯をしないことを彼等に約束させ、戒めとして、その甲羅に焼印を押しました。巻き上がった水の移った先が現在の鏡池。開聞の河童の甲羅には焼印があり、人に害を加えることはないそうです。開聞には蓮の花が咲きません。
鏡池では神々の湖上の宴も催され、これを覗き見たことを覚られると正気を失います。深夜から明け方にかけての徘徊は、ご遠慮ください。
九郎は伴姓穎娃氏の九郎兼有。小四郎兼慶の異母兄で、清見岳のページでも触れている伴姓穎娃氏の祖、兼政から数えて6代となる父兼堅の死後、正室であった実母は実家樺山家に戻ります。このこともあって、九郎は兼慶の母(帖佐氏)から激しく疎まれ、夫人の伯父に当る島津家15代貴久(大中公)の庇護の下にありました。
公は元龜二(1571)年に没し、兼堅の執事であった津曲宗俊は穎娃に兼有を立て、兼慶には揖宿をあてがおうと画策します(本貫は穎娃ですから揖宿は直轄領ではなく、津曲氏が代官として配されていました)。これに対し、穎娃一族の新左衛門兼豊は当時13歳の兼慶を擁し、援軍として宗家肝屬氏[4]の協力を取り付けました。七月十八日(8月18 日)、枚聞神社に拠った兼有は包囲され、別当寺(開聞山普門寺)瑞應院の住持瀨宋法院、圓藏坊等と共に坊津に逃れようとする途中に討たれます。彼らを祀ったのが九郎冢(通称くろどん)、瀨宋法院冢(同ですどん)で、何れも開聞十町にあります [5] 文化財保存に対する自治体の意識が低く、何れも市指定有形文化財とは思えない姿となっていますので、お訪ねになっても落胆されませんように(下の九郎冢、瀨宋法院冢の画像は、クリックすれば医療法人慈光会 宮薗病院のホーム・ページで紹介されていた2005年4月14日時点でのものがpop-up表示されます。ただ、瀨宋法院冢の状態は、2017年頃と比較すれば多少改善しているようです)。
この時の騒乱により枚聞神社と別当寺は焼失し、宝物、文書の殆どが失われてしまいました。信長の延暦寺焼討の2ヵ月ほど前です。
穎娃家の内訌は元龜の騒動で終息したわけではありません。既に我が子兼慶とも対立し、専横の度合いを増す母帖佐氏の排斥を試みた津曲宗俊の弟道俊等10名は、これを容れられず、身を案じて松尾城(指宿城)に籠ります。この顛末は島津家16代義久(貫明公)の知るところとなり、反旗を翻した一党は平源山證恩寺に誘い出されて誅されました。穎娃兼豊も集川の河原で処刑されています。この事件は證恩崩れと称されます[6]。
兼慶は名を左馬之介久虎と改め、数えで30歳の年には居城である獅子城(野首城)に5層の天守閣も完成しましたが、その年が彼の没年となります。清見城辺りの農民に不穏な動きがあったために出兵の途中、御伽衆皮屋与三の乗る馬に鞭を当て、与三が怯えるのを面白がっているうち、与三の馬が𡵅(補)に飛び込んでしまいました。久虎の馬もこれに驚いて転落。久虎は落馬し、打ち所が悪かったのか四日後に死亡、という少なからず間抜けな最後です[7]。1587(天正十五)年、秀吉の島津征伐、聚楽第建造の年です。獅子城跡は、開聞と頴娃の間にある荷辛地峠の北側にあります[8]。
画像は本丸跡。後方は土塁で、中央の高い部分が櫓台です(画像クリックで拡大表示されます)。
(補) 雨などの浸食によって生じる溝渠で、雨裂とも呼ばれる小型のガリ浸食(Gully Erosion)です。右の画像は開聞山麓自然公園遊歩道の𡵅。深いところでは成人男性の胸にとどくほどの窪みとなっています(撮影:2016年5月12日,N 31.17385;E 130.54790)。佐々木四郎の“いけずき”ですら“八寸の馬”と、体高4尺8寸(約145.5cm)で、大力で知られる畠山重忠が鎧の上に背負って鵯越で逆落としをかけた三日月栗毛は多少それよりも小振りだったと思われます[9]。転落すればひとたまりもなかったでしょう。
獅子城は、1546年にCanguexuma(鹿児島)のIamangoo(山川)に滞在したホルヘ・アルヴァレス(Jorge Álvares)が“報告(Informação)”に記録を残した城砦であるとされています。伴姓穎娃氏5代兼友(1529~48)の時代です。天正十六(1588)年に廃城となり、現在は縄張りの跡から往時を偲ぶしかありませんが、47以上はあると思われる門で外部と結ばれた砂岩の石垣に囲まれる19の館を擁し、高い土塁が柵によって補強されていたそうです[10]。
久虎の墓塔は、母帖佐氏等のものと共に、穎娃氏菩提寺であった南九州市頴娃町の大通寺跡に残されています[11]。また、矢筈岳と大野岳の間にある頴娃古城は、平姓穎娃氏の居城跡です。
現在の社殿は1610(慶長十五)年に島津家17代義弘(惟新公)が寄進したもので、1787(天明七)年に25代重豪によって改築されました。奥に開聞岳を臨む本殿手前の鳥居の右側に、木の股から桜の咲く大楠があります。
枚聞神社は967(康保四)年に施行された延喜式にもみられる表記ですが[12]、874(貞觀十六)年と885(仁和元)年の開聞岳の噴火を記録している日本三代實録には、開聞岳そのものを神格化して指すと考えられる薩摩國從四位上開聞神、頴娃郡正四位下開聞明神の表記もあります[13]。右の画像を見ても本殿が開聞岳を拝跪する方向に設営されていることから、山岳信仰由縁の社殿であったのではないかと思われ、語源や由来については諸説あるものの、枚聞、開聞、何れの読みも“ひらきき”であったようです。開聞岳の山頂手前には御嶽神社が祀られています。
ここに祀られていたともいわれる大宮姫については福元火砕岩類(無瀬浜)のページでも触れていますが、頴娃開聞社古縁起には、大宮姫は頴娃の人で、天智天皇崩御に際してそのお姿を像として残し、706(慶雲三)年にその像と共に帰国。708(和銅元)年に亡くなったという、少しは史実に近いのではと考えられる記述があったとのことです(三國名勝圖會 巻之二十四 一)[14]。
一説に、
又所謂大宮姫は、鹿籠采女とて鹿籠村の産なりしか、當時調れて采女に貢り、天智崩御の後本國に歸りしを、鹿籠を誤て鹿の子といひなせし由、本田親盈か書しものに見えぬ、
麑藩名勝考(鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1982 )
というものもあります。本田親盈は、諏訪神宮大宮司です。
又一説に大宮姫は、鹿葦津姫命 一名木花開耶姫、即瓊々杵尊の后、の訛なるべし、
三國名勝圖會 巻之二十四 六
ともあり、“鹿の足をもつ”は、この辺りから転化したものでしょうか [15]。皇統の祖である神武天皇のひいおばあさまと第38代天智天皇に仕えた采女らしき女性を混同するところが伝承らしいといえば伝承らしいのですが・・・。“鹿から生まれた姫”は、釈尊の母親である摩耶夫人が鹿から生まれたという伝説からの連想ではないかと思われる節もあります[16]。
いろいろ照らし合わせると、鹿児島出身の采女の話が天智天皇鹿児島巡行伝説と融合し、増殖していった可能性が高そうです。
開聞社には、現薩摩川内市の新田神社と薩摩一ノ宮の座を長年に亘って争い続けたという因縁があり、瓊々杵尊が祀られる新田神社に対抗することを目的として、箔をつけるため後世に大宮姫、或は天智天皇縁起へとすり替えられたとする説もあります[17]。
枚聞神社とその別当寺であった瑞應院、国の重要文化財に指定されている化粧筥(松梅蒔絵櫛笥)等については“関東かいもん会”ホーム・ページの“開聞昔話”に詳しく紹介されています。また、枚聞神社は874年の貞觀の噴火で罹災し、御神体は新宮九社大明神(揖宿神社)に避難されましたが、罹災前の枚聞神社の威容を上記サイトの“鳥井ケ原”の項にある挿絵で偲ぶことができます。
天智天皇については、志布志の山宮大明神舊記に、 661(白雉十二)年、齊明天皇に随行し九州に赴いた際に薩摩にも巡行。開聞には123日間(6月10日~10月10日)滞在と記されているようです。志布志市安楽の船磯は天智天皇がお着きになった場所であることに因む字名だそうで、2012年10月には横穴墓の発掘調査も実施されています[18]。
三國名勝圖會で紹介されている山宮大明神舊記は、
往古、天智天皇、嘗て薩摩國頴娃開聞の地に御幸の時、今の志布志安樂村海濱に御着 其濱を船磯と云ふ、あり、土人を召て、開聞嶽の所在を問はれ、此嶽に登臨し、遙に開聞嶽を眺望し玉ふ、是歳五月五日、頴娃に至り、九月九日まで蹕を留めらる、頴娃に於て玉依姫を寵せらる、玉依姫十六歳にして娠む、翌年五月十八日、乙宮姫を生む、此玉依姫とは、開聞社縁起に見江たる、大宮姫の事なるべし、頴娃の巻、開聞神社に詳なり、天皇頴娃より又志布志に遷幸あり、白馬に騎りて毛無野をすぎ、此嶽に登り、開聞嶽を望み、遠く去ルに忍びず、行宮を建らる、
三國名勝圖會 巻之六十 ニ
“此嶽”は御在所嶽(岳)。山宮神社は、薩藩名勝志(鹿児島県立図書館蔵)に拠れば、もともとは“天智帝此嶽に登臨し給ひ、薩州頴娃郡開聞嶽を眺望し、后のましませし所ミゆれハとて宮居を立給”はれたことに因んで和銅二年六月(709年7月16日~8月13日。三國名勝圖會では和銅元年六月十八日(708年7月14日))に御在所嶽に祀られた天智帝霊廟で、御在所嶽は頴娃崖とも呼ばれていたようなのですが[19]、開聞岳を望む位置にあることによる祟りを畏れて、という帝のご意向を忘却の彼方に打ち捨てた所業の結果として現在の位置(志布志市志布志町田之浦559[20])に移されました。
玉依姫は豊玉姫の妹君で、豊玉姫の夫君である山幸彦(火遠理命・彦火火出見尊)を継いだ天津日高日子波限建鵜草葺不合命(彦波瀲武盧茲草葺不合尊)の后。即ち神武天皇の母君ですから、 鹿葦津姫命と比べれば多少近いとはいえ、 38代天智天皇の遠い祖先にあたる方で、三國名勝圖會の注記にあるように、ここでも大宮姫との混同があるかと思えます。宗像三女神を始め、何れの神を仮託するものかも判然としない乙宮姫が大宮姫の長女とされていることには時代的な錯綜以外にも違和感をおぼえるところがあります。大宮姫は都から頴娃に向かわれる途中に女児を産まれており、その姫が捨てられて日置の大岩嶋(現在の久多島)となったという伝承があります(薩藩名勝志,鹿児島県立図書館蔵)。久多島神社は、その姫の御霊を慰めるために設けられた社で、境内裏の沖合に大岩嶋を望みます。
あったこっか、なかったこっか、しっちょいもさんば、あったこちしてきっくぃやぃもす。
福元火砕岩類(無瀬浜)のページでも触れている豊玉姫が、山佐知毘古と出会った場所として伝えられる龍宮門前の井戸です。枚聞神社には、かつて、豊玉姫が水を汲む際に使われたと伝わる甕が二口ありました。
酒甕屋 甕二口あり、縁起曰、和多都美神御姫豐玉姫、門前の玉井におひて玉瓶を以て水を汲給ふ御瓶を安置の處也、今御祭の神酒を貯ふ、世人是を千年酒と唱ふ也、(中略) 正治元年十一月三日、大風の時社宇吹損し、御瓶一ツは破却す、櫻井家の出家上京して御瓶を模し、元の如く安置す、
麑藩名勝考(鹿児島県史料,
鹿児島県維新資料編さん所,1982)
つまり、甕のうちの一つは1199年の大風で壊れてしまったということです。源頼朝急逝の年で新暦11月22日に当りますが、実は、甕が壊れたのは、この時が初めてではありません。
甕破坂 福元村の中にて、六瀨濱より戌亥方十八町、開聞一の往還に在り、むかし龍宮城より千年酒を開聞に上りし時、此處にて地に墜し、その酒甕を破りし故に名くとそ、一説にハ大宮姫都より携來りし物とも在り、
麑藩名勝考(鹿児島県史料,
鹿児島県維新資料編さん所,1982)
同じ文献で 147~8万年の差がある豊玉姫と大宮姫の何れかが由来であるとする説がさりげなく併記されているというところはスルーで・・・。
甕破坂は、山川福元から山川成川と山川小川の境に抜ける道の途中にあります。今では舗装されて平坦性も保たれ“開聞一の往還”の面影もありませんが、かつてはなかなかの勾配をもつ衢地の類であったかと思われます。
右の画像は薩藩名勝志(鹿児島県立図書館蔵;図版原版-鹿児島大学附属図書館所蔵)の挿絵の一部です。図版の説明文は、
大宮姫都より携へ来り給ふ甕なり 一甕ハそのかみ無瀬の濵より爰に至る路にて落し破りけれハ他の甕もて是にかへたりといふ、今に破甕酒部屋のうちにあり、
云々[21]と大宮姫由来の甕割坂伝説を支持する内容で(右の図をクリックして頂ければ、三國名勝圖會のコピペ版では削除されてしまっている説明文の部分がポップ-アップで拡大表示されます)、当初から一つは既にレプリカで、オリジナルの残骸も残されていたことになっています。とすると大風で壊れてしまったのはどちらの甕だったのでしょう。
不思議なことに、現在、枚聞神社の宝物殿に展示されている甕は1口だけです。説明板には“酒甕 壱口”として、大宮姫が持ち帰られた甕のうち1口は甕破坂、1口は1199年の暴風で破損し、展示品は翌1200年に紀州で模造されたもの、とあります。となると麑藩名勝考(1795年)の“甕二口あり”という記載は、薩藩名勝志(1806年)の挿絵と共に現地調査も満足にしていないでっち上げということになってしまいます。
謎の甕です。
三國名勝図會 巻之二拾四 (国立国会図書館デジタルコレクション)
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