鏡池マール群

薩藩名勝志の鏡池図版

周辺の史跡①:九郎冢(塚)・瀨宋法院冢(塚)

周辺の史跡②:枚聞(ひらきき)神社

周辺の史跡③:玉乃井


鏡池は開聞仙田にある周囲約600m、最深部14mの湖。薩藩名勝志鹿児島県立図書館蔵の挿絵に添えられる信輔公の歌には池に浮ぶ一羽の鴛が詠まれていますが、現在は周辺への立入が制限されている絶好の水鳥観察ポイントです(信輔公御詠は、コピペ版の三國名勝圖會図版からは削除されています)。水無池は、鏡池を350mほど南西方向に進んだところにあるマールで、こちらには水がありません。奥野・小林(1991[1]は、鏡池東側の灰白色火山灰層の露頭を鏡池もしくは水無池由来と考え、これが5,600年前の池田湖火山灰層と4,300年前の鍋島岳テフラ層の間にあることから、何れもその間に活動した火口の跡としています。

マールは地質図では赤線で囲む形で表示されていますが、鏡池、水無池の他に鍋島岳の東側のマークが水源地マール。西側で上野の“野”の字の下にあるのが大底月マール、鍋島岳溶岩(Nbd)と重なって見えづらくなっていますが“野”の字の右上のものが小底月マール。これらは総称して鏡池マール群と呼ばれています。但し、奥野・小林(1991 )は、小底月、大底月は鍋島岳溶岩、水源地は鍋島岳テフラ層を破壊して形成されたマールであることから、鏡池、水無池よりも新しい、鍋島岳成立以降の地形であるとしています。

尚、水無池は土木・造成等事業者さんの所有地であり、残土処理場として利用し埋立てられる予定となったことから、20216月に学術的価値の確認調査が実施されました(指宿市教育委員会“指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書68”,20223月)。ただ、埋立られる前最後の機会ということで、鹿児島県立博物館による水無池マール内部に堆積するテフラの調査も実施され、それまで目立った研究成果のなかった鏡池・水無池マール噴出物の構造と層序が明らかになっています。それに拠れば、水無池テフラは池田湖火山灰の上位にあり、鍋島岳テフラの下位にある鏡池テフラに覆われています。何れも軽石・岩片を含む火山灰層ですが、鏡池テフラには、水無池テフラで確認できる角閃石が含まれていないそうです[2]

残土処理場としての利用に向けて整地された20228月時点の水無池の画像はこちら。火口縁下2~3m辺りまで埋立てが進んだ時点で事業終了届が提出されるとのことです。

Kagami_Mizunashi

 

かつては現在の水無池が鏡池と呼ばれていたという言い伝えがあります。

嘉吉三(1443)年の六月朔日(新暦77日)、枚聞神社別当寺の開聞山普門寺瑞應院の阿闍梨快雅の弟子千壽丸が当時の鏡池で溺死しました。多門寺の律師快財が快雅の命を受け池に戒壇を設けて護摩行を行ったところ、天地が鳴動して瞬時に水が涸れてしまったそうです[3]。ジャンヌ・ダルク刑死の12年後、籤引きで選ばれた足利6代将軍義教が赤松満祐に謀殺された嘉吉の変の2年後です。

これにはお伽噺バージョンもあります。

鏡池で和尚様のために蓮の花を摘もうとしていた千壽丸が足を滑らせてしまいます。弟子の知らせで駆け付けた住職が読経を続けると池の水が巻き上がり、現れた池の底に千壽丸の亡骸を囲む河童(がらっぱ)が・・・。和尚は、この先悪戯をしないことを彼等に約束させ、戒めとして、その甲羅に焼印を押しました。巻き上がった水の移った先が現在の鏡池。開聞の河童の甲羅には焼印があり、人に害を加えることはないそうです。開聞には蓮の花が咲きません。

鏡池では神々の湖上の宴も催され、これを覗き見たことを覚られると正気を失います。深夜から明け方にかけての徘徊は、ご遠慮ください。

 

周辺の史跡①:九郎冢(塚)・瀨宋法院冢(塚)

伴姓穎娃氏系図 九郎は伴姓穎娃氏の九郎兼有。小四郎兼慶の異母兄で、清見岳のページでも触れている伴姓穎娃氏の祖、兼政から数えて6代となる父兼堅の死後、正室であった実母は実家樺山家に戻ります。このこともあって、九郎は兼慶の母(帖佐氏)から激しく疎まれ、夫人の伯父に当る島津家15代貴久(大中公)の庇護の下にありました。

公は元龜二(1571)年に没し、兼堅の執事であった津曲宗俊は穎娃に兼有を立て、兼慶には揖宿をあてがおうと画策します(本貫は穎娃ですから揖宿は直轄領ではなく、津曲氏が代官として配されていました)。これに対し、穎娃一族の新左衛門兼豊は当時13歳の兼慶を擁し、援軍として宗家肝屬氏[4]の協力を取り付けました。七月十八日(818 日)、枚聞神社に拠った兼有は包囲され、別当寺(開聞山普門寺)瑞應院の住持瀨宋法院、圓藏坊等と共に坊津に逃れようとする途中に討たれます。彼らを祀ったのが九郎冢(通称くろどん)、瀨宋法院冢(同ですどん)で、何れも開聞十町にあります [5] 文化財保存に対する自治体の意識が低く、何れも市指定有形文化財とは思えない姿となっていますので、お訪ねになっても落胆されませんように(下の九郎冢、瀨宋法院冢の画像は、クリックすれば医療法人慈光会 宮薗病院のホーム・ページで紹介されていた2005414日時点でのものがpop-up表示されます。ただ、瀨宋法院冢の状態は、2017年頃と比較すれば多少改善しているようです)。

九郎塚(冢) 瀨宋法院塚(冢)

この時の騒乱により枚聞神社と別当寺は焼失し、宝物、文書の殆どが失われてしまいました。信長の延暦寺焼討の2ヵ月ほど前です。

 

穎娃家の内訌は元龜の騒動で終息したわけではありません。既に我が子兼慶とも対立し、専横の度合いを増す母帖佐氏の排斥を試みた津曲宗俊の弟道俊等10名は、これを容れられず、身を案じて松尾城(指宿城)に籠ります。この顛末は島津家16代義久(貫明公)の知るところとなり、反旗を翻した一党は平源山證恩寺に誘い出されて誅されました。穎娃兼豊も(あつまり)(がわ)の河原で処刑されています。この事件は證恩崩れと称されます[6]


獅子城(野首城)本丸跡

 

兼慶は名を左馬之介久虎と改め、数えで30歳の年には居城である獅子城(野首城)に5層の天守閣も完成しましたが、その年が彼の没年となります。清見城辺りの農民に不穏な動きがあったために出兵の途中、御伽衆皮屋与三の乗る馬に鞭を当て、与三が怯えるのを面白がっているうち、与三の馬が𡵅(ほき)に飛び込んでしまいました。久虎の馬もこれに驚いて転落。久虎は落馬し、打ち所が悪かったのか四日後に死亡、という少なからず間抜けな最後です[7]1587(天正十五)年、秀吉の島津征伐、聚楽第建造の年です。獅子城跡は、開聞と頴娃の間にある()(がら)()峠の北側にあります[8]

画像は本丸跡。後方は土塁で、中央の高い部分が櫓台です(画像クリックで拡大表示されます)。

 

開聞山麓自然公園遊歩道の𡵅(ほき) 雨などの浸食によって生じる溝渠で、雨裂とも呼ばれる小型のガリ浸食(Gully Erosion)です。右の画像は開聞山麓自然公園遊歩道の𡵅。深いところでは成人男性の胸にとどくほどの窪みとなっています(撮影:2016512日,N 31.17385E 130.54790)。佐々木四郎の“いけずき”ですら“八寸(ヤキ)の馬”と、体高48寸(約145.5cm)で、大力で知られる畠山重忠が鎧の上に背負って鵯越で逆落としをかけた三日月栗毛は多少それよりも小振りだったと思われます[9]。転落すればひとたまりもなかったでしょう。

 

大通寺跡供養塔群

獅子城は、1546年にCanguexuma(鹿児島)のIamangoo(山川)に滞在したホルヘ・アルヴァレス(Jorge Álvaresが“報告(Informação)”に記録を残した城砦であるとされています。伴姓穎娃氏5代兼友(1529~48)の時代です。天正十六(1588)年に廃城となり、現在は縄張りの跡から往時を偲ぶしかありませんが、47以上はあると思われる門で外部と結ばれた砂岩の石垣に囲まれる19の館を擁し、高い土塁が柵によって補強されていたそうです[10]

久虎の墓塔は、母帖佐氏等のものと共に、穎娃氏菩提寺であった南九州市頴娃町の大通寺跡に残されています[11]。また、矢筈岳と大野岳の間にある頴娃古城は、平姓穎娃氏の居城跡です。


 

周辺の史跡②:枚聞(ひらきき)神社

枚聞神社の桜の咲く大楠 現在の社殿は1610(慶長十五)年に島津家17代義弘(惟新公)が寄進したもので、1787(天明七)年に25代重豪によって改築されました。奥に開聞岳を臨む本殿手前の鳥居の右側に、木の股から桜の咲く大楠があります。

枚聞神社は967(康保四)年に施行された延喜式にもみられる表記ですが[12]874(貞觀十六)年と885(仁和元)年の開聞岳の噴火を記録している日本三代實録には、開聞岳そのものを神格化して指すと考えられる薩摩國從四位上開聞神、頴娃郡正四位下開聞明神の表記もあります[13]。右の画像を見ても本殿が開聞岳を拝跪する方向に設営されていることから、山岳信仰由縁の社殿であったのではないかと思われ、語源や由来については諸説あるものの、枚聞、開聞、何れの読みも“ひらきき”であったようです。開聞岳の山頂手前には御嶽神社が祀られています。

 

ここに祀られていたともいわれる大宮姫については福元火砕岩類(無瀬浜)のページでも触れていますが、頴娃開聞社古縁起には、大宮姫は頴娃の人で、天智天皇崩御に際してそのお姿を像として残し、706(慶雲三)年にその像と共に帰国。708(和銅元)年に亡くなったという、少しは史実に近いのではと考えられる記述があったとのことです三國名勝圖會 巻之二十四 一[14]

一説に、

又所謂大宮姫は、鹿籠采女とて鹿籠村の産なりしか、當時調れて采女に(タテマツ)り、天智崩御の後本國に歸りしを、鹿籠を誤て鹿の子といひなせし由、本田親盈か書しものに見えぬ、

麑藩名勝考(鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1982

というものもあります。本田親盈は、諏訪神宮大宮司です。

又一説に大宮姫は、鹿葦(シカアシ)()姫命 一名木花(コノ)(サク)()姫、即瓊々(ニニ)(ギノ)(ミコト)の后、の訛なるべし、

三國名勝圖會 巻之二十四 六

国立国会図書館デジタルコレクション

ともあり、“鹿の足を(シカアシ)もつ()”は、この辺りから転化したものでしょうか [15]皇統の祖である神武天皇のひいおばあさまと第38代天智天皇に仕えた采女らしき女性を混同するところが伝承らしいといえば伝承らしいのですが・・・。“鹿から生まれた姫”は、釈尊の母親である摩耶夫人が鹿から生まれたという伝説からの連想ではないかと思われる節もあります[16]

いろいろ照らし合わせると、鹿児島出身の采女の話が天智天皇鹿児島巡行伝説と融合し、増殖していった可能性が高そうです。

開聞社には、現薩摩川内市の新田神社と薩摩一ノ宮の座を長年に亘って争い続けたという因縁があり、瓊々杵尊が祀られる新田神社に対抗することを目的として、箔をつけるため後世に大宮姫、或は天智天皇縁起へとすり替えられたとする説もあります[17]

枚聞神社とその別当寺であった瑞應院、国の重要文化財に指定されている化粧筥(松梅蒔絵櫛笥)等については“関東かいもん会”ホーム・ページの“開聞昔話”に詳しく紹介されています。また、枚聞神社は874年の貞觀の噴火で罹災し、御神体は新宮九社大明神(揖宿神社)に避難されましたが、罹災前の枚聞神社の威容を上記サイトの“鳥井ケ原”の項にある挿絵で偲ぶことができます。

 

天智天皇については、志布志の山宮大明神舊記に、 661(白雉十二)年、齊明天皇に随行し九州に赴いた際に薩摩にも巡行。開聞には123日間(610~1010日)滞在と記されているようです。志布志市安楽の船磯は天智天皇がお着きになった場所であることに因む字名だそうで、201210月には横穴墓の発掘調査も実施されています[18]

三國名勝圖會で紹介されている山宮大明神舊記は、

往古、天智天皇、嘗て薩摩國頴娃開聞の地に御幸の時、今の志布志安樂村海濱に御着 其濱を船磯と云ふ、あり、土人を召て、開聞嶽の所在を問はれ、此嶽に登臨し、遙に開聞嶽を眺望し玉ふ、是歳五月五日、頴娃に至り、九月九日まで蹕を留めらる、頴娃に於て玉依姫を寵せらる、玉依姫十六歳にして娠む、翌年五月十八日、乙宮姫を生む、此玉依姫とは、開聞社縁起に見江たる、大宮姫の事なるべし、頴娃の巻、開聞神社に詳なり、天皇頴娃より又志布志に遷幸あり、白馬に騎りて毛無野をすぎ、此嶽に登り、開聞嶽を望み、遠く去に忍びず、行宮を建らる、

三國名勝圖會 巻之六十 ニ

国立国会図書館デジタルコレクション

志布志市山宮神社 此嶽”は御在所嶽(岳)。山宮神社は、薩藩名勝志鹿児島県立図書館蔵に拠れば、もともとは“天智帝此嶽に登臨し給ひ、薩州頴娃郡開聞嶽を眺望し、后のましませし所ミゆれとて宮居を立給”はれたことに因んで和銅二年六月(709716~813日。三國名勝圖會では和銅元年六月十八日(708714日))に御在所嶽に祀られた天智帝霊廟で、御在所嶽は頴娃(ひら)とも呼ばれていたようなのですが[19]、開聞岳を望む位置にあることによる祟りを畏れて、という帝のご意向を忘却の彼方に打ち捨てた所業の結果として現在の位置(志布志市志布志町田之浦559[20])に移されました。

玉依姫は豊玉姫の妹君で、豊玉姫の夫君である山幸彦(火遠理(ほおり)(のみこと)(ひこ)火火出見(ほほでみ)(のみこと))を継いだ(あま)津日高日子波(つひこひこな)限建(ぎさたけ)鵜草(うがや)(ふき)不合(あえず)(のみこと)(ひこ)()瀲武(ぎさたけ)盧茲草(うがや)(ふき)不合(あえず)(のみこと))の后。即ち神武天皇の母君ですから、 日置市久田島神社仁王像 鹿葦津姫命と比べれば多少近いとはいえ、 38代天智天皇の遠い祖先にあたる方で、三國名勝圖會の注記にあるように、ここでも大宮姫との混同があるかと思えます。宗像三女神を始め、何れの神を仮託するものかも判然としない乙宮姫が大宮姫の長女とされていることには時代的な錯綜以外にも違和感をおぼえるところがあります。大宮姫は都から頴娃に向かわれる途中に女児を産まれており、その姫が捨てられて日置の大岩嶋(現在の久多島)となったという伝承があります(薩藩名勝志,鹿児島県立図書館蔵。久多島神社は、その姫の御霊を慰めるために設けられた社で、境内裏の沖合に大岩嶋を望みます。

あったこっか、なかったこっか、しっちょいもさんば、あったこちしてきっくぃやぃもす(あったことかもなかったことかも存じませんから、あったこととしてお聞きください)


 

周辺の史跡③:玉乃井

玉乃井 福元火砕岩類(無瀬浜)のページでも触れている豊玉姫が、山佐知毘古と出会った場所として伝えられる龍宮門前の井戸です。枚聞神社には、かつて、豊玉姫が水を汲む際に使われたと伝わる甕が二口ありました。

酒甕屋 甕二口あり、縁起曰、和多都美神御姫豐玉姫、門前の玉井におひて玉瓶を以て水を汲給ふ御瓶を安置の處也、今御祭の神酒を貯ふ、世人是を千年酒と唱ふ也、(中略) 正治元年十一月三日、大風の時社宇吹損し、御瓶一ツは破却す、櫻井家の出家上京して御瓶を模し、元の如く安置す、

麑藩名勝考(鹿児島県史料,

鹿児島県維新資料編さん所,1982

薩藩名勝志の玉乃井図版 つまり、甕のうちの一つは1199年の大風で壊れてしまったということです。源頼朝急逝の年で新暦1122日に当りますが、実は、甕が壊れたのは、この時が初めてではありません。

甕破坂(カメワリザカ) 福元村の中にて、六瀨濱より戌亥方十八町、開聞一の往還に在り、むかし龍宮城より千年酒を開聞に上りし時、此處にて地に墜し、その酒甕を破りし故に名くとそ、一説に大宮姫都より携來りし物とも在り、

麑藩名勝考(鹿児島県史料,

鹿児島県維新資料編さん所,1982

同じ文献で 147~8万年の差がある豊玉姫と大宮姫の何れかが由来であるとする説がさりげなく併記されているというところはスルーで・・・。

甕破坂は、山川福元から山川成川と山川()(がわ)の境に抜ける道の途中にあります。今では舗装されて平坦性も保たれ“開聞一の往還”の面影もありませんが、かつてはなかなかの勾配をもつ衢地の類であったかと思われます。

 

薩藩名勝志の枚聞神社酒甕図版 右の画像は薩藩名勝志鹿児島県立図書館蔵;図版原版-鹿児島大学附属図書館所蔵)の挿絵の一部です。図版の説明文は、

大宮姫都より携へ来り給ふ甕なり 一甕そのかみ無瀬の濵より爰に至る路にて落し破りけれ他の甕もて是にかへたりといふ、今に破甕酒部屋のうちにあり、

云々[21]と大宮姫由来の甕割坂伝説を支持する内容で(右の図をクリックして頂ければ、三國名勝圖會のコピペ版では削除されてしまっている説明文の部分がポップ-アップで拡大表示されます)、当初から一つは既にレプリカで、オリジナルの残骸も残されていたことになっています。とすると大風で壊れてしまったのはどちらの甕だったのでしょう。

不思議なことに、現在、枚聞神社の宝物殿に展示されている甕は1口だけです。説明板には“酒甕 壱口”として、大宮姫が持ち帰られた甕のうち1口は甕破坂、1口は1199年の暴風で破損し、展示品は翌1200年に紀州で模造されたもの、とあります。となると麑藩名勝考(1795年)の“甕二口あり”という記載は、薩藩名勝志(1806年)の挿絵と共に現地調査も満足にしていないでっち上げということになってしまいます。

謎の甕です。

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[1] 奥野充・小林哲夫“鍋島岳火山の地質”,鹿児島大学理学部紀要(地学・生物学) No.241991年。
[2] 成尾英仁・若松斉昭・小林哲夫“指宿市開聞町の水無池マールにおけるテフラ群”,鹿児島県立博物館研究報告 第41号,鹿児島県立博物館,2022331
[3] 開聞山古事縁起(神道大系 神社編 四十五,神道大系編纂会,1987にあるエピソードで、千壽丸はシキミ(樒葉花)を摘んでいたとされています。薩藩名勝志鹿児島県立図書館蔵でも六月朔日の出来事ですが、麑藩名勝考の鏡池の項には“嘉吉三年正月朔日、俄に池沼となる”とあり、半年先行しています。
[4] 天正二(1574)年、島津氏に臣従しました。家紋は鶴丸。維新十傑の一人、小松帶刀清廉(きよかど)も肝屬氏の流れです。
又一説に、肝屬氏が系圖に、肝屬氏は、大友帝の子孫と見江たり、應永中、肝屬河内守兼元が二男、美濃守兼政に、頴娃を賜ふ 頴娃を以て氏とす、開聞社に奉納せる、兵庫鎖大刀の(カザリ)、鶴丸の章幟(モン)あるは、正しく肝屬氏が寄進と思はるを、天智帝の御太刀など丶いへり、此事に因て見れば、肝屬氏は、大友帝の子孫と號する故を以て、肝屬氏が此より、天智帝の諸事を附會せしならんと、

三國名勝図會 巻之二拾四 国立国会図書館デジタルコレクション

[5] 圓藏坊を祀った知事冢もあったようで、三國名勝圖會には“瀨宋冢より二町許、子の方に當る”と記されているのですが、“九郎冢より午方三町許”とある瀨宋冢は、現在の開聞中学校正門道路の敷設時に開門小学校の東側にある旧中学校跡正門前に移されており、当時の位置にはありません。知事冢の痕跡が残っているとすれば国道226号線の周辺と考えられますが、確認することはできませんでした。“老松を冢とす”とあるところをみると、モイどんのようなものであったかもしれません。
[6] 娃家の内訌については、田尻種甫によって享保年間(1716~1736年)頃までに編纂されたとされる“本藩地理拾遺集上 薩摩国(鹿児島県史料 第31集,鹿児島県立図書館蔵)”にも詳しいのですが、経緯等は細部でここに紹介した三國名勝圖會の記載とは異なり、九郎は頴娃九郎忠継。事件は天正七(1579)年頃に起こり、“證恩崩れ”の一党は“周應寺”で奮戦の末に討取られたとされています。
證恩寺は度重なる火災で焼失しましたが、遺構とされる仁王像が残されています。
[7] 重永卓爾校註“伊地知季安原編「揖宿古主略考」(上)”,揖宿史談 第4号,指宿史談会,19845
[8] 久虎は享年29。三郎久音(ひさふえ)5歳で8代を継ぎましたが、翌1588(天正十六)年に豊臣秀吉の九州征伐(1586~87年)のあおりを受けてか谷山郷山田に移封され(“本藩地理拾遺集”は伊集院忠棟入道幸侃(こうかん)讒訴説を採っています)、穎娃氏領が島津家直隷となったことで獅子城も取り毀たれました。久音は、1598(慶長三)年、朝鮮で客死します。
[9] 源平盛衰記“義經鵯越を落す畠山馬を荷ふ馬の因縁の事一の谷落城の事国立国会図書館デジタルコレクション”。“三日月栗毛”についての詳細はありませんが、参考源平盛衰記佐々木梶原池月磨墨の事義經密謀畠山怪力の事国立国会図書館デジタルコレクション”にある忠重の“秩父鹿毛”は体高(4尺)78分ですから約144.8cmでした。忠重は宇治川で馬を射られたためにこれを降り、大串次郎重親を川の中から岸に投げ上げて“歩立(かち)先陣”の功を挙げさせています(四郎高綱の先陣の後なので、大串次郎の名乗りは、“敵も御方も是を聞いて一度にどとぞ笑ける(平家物語“宇治川先陣”,国立国会図書館デジタルコレクション)”というお慰みエピソードですけれど)。その時の馬は参考源平盛衰記畠山重忠勇敢の事佐々木梶原宇治川先陣の事国立国会図書館デジタルコレクション ”に拠れば“鬼栗毛”ですから、“秩父鹿毛”も鵯越に伴われていたように思えますが、崖の上に置いてけぼりでしょうか。 吐噶喇馬 但し、平家物語にある“鵯越”は実際には六甲山系を大輪田泊に下る道で、一の谷と大輪田泊は直線距離で 7Kmほど離れているようですし、吾妻鑑国立国会図書館デジタルコレクションでの重忠は義経ではなく範頼の手に属していますから、担がれた馬も置いてけぼりを喰らった馬もいないようで結構なことです。
開聞山麓自然公園(指宿市開聞川尻6743)には在来馬のうちでも小型の吐噶喇(トカラ)馬が飼育されています。体長は120cm前後(小山田巽;橋口勉;柳田宏一;武富萬治郎“トカラ馬の飼養概要および体尺測定”,鹿大農学術報告第29号,1979)ですから、一度ご覧になって、その2割増し程度と考えて頂ければ当時の軍馬のイメージが掴み易いのではないでしょうか。
[10] Reverend COLERIDGE, Henry James “The Life and Letters of St. Francis Xavier”,1876Notes to Book - 2. Account of Japan by Jorge Alvarez)。
[11] 1990年の史跡整備事業により、獅子城跡、護戒山安養寺(大野岳神社の別当寺)跡から移築されました。案内板(2016413日時点)には、画像で右端にあるものに久虎と表示がありますが、墓標は徳崇了政公居士となっていますから、アルヴァレスと対面したとも思われる5代兼友ではないでしょうか(本文中の画像は、クリックすれば拡大表示されます)。久虎の法名である桂岳林昌居士が彫られているのは、その二つ隣、画面では中央奥のものとなります。その二つに挟まれているのが帖佐氏の墓標ですが、表示板の齢峯妙椿大姉ではなく、齢峯妙壽大姉と読めます。建立が永禄五(1562)年と、久虎(兼慶)が数えで3才の年ですから、我が子が当主となることを祈願しての逆修塔と考えられているようです。韓非子の姦却弑臣にエピソードを残す春申君の愛妾 余のような女性であったのでしょうか。まぁ、血筋が違うとはいえ、高崎崩れ(お由羅騒動)もありましたから、これも薩摩の伝統かもしれません。“薩摩おごじょ”が幻想に過ぎないことは、実際に鹿児島の女性と結婚してみれば実感できます。
[12] 巻十 神祇十 神名下。祭神は和多都美神となっています。
[13] 卷二十六 起貞觀十六年七月盡十二月、及び卷四十八仁和元年 起仁和元年七月盡十二月。開聞神は、8821123日(元慶六年十月九日)に位階を上げました。
[14] 古記は頴娃氏の元龜の争乱の際の枚聞神社炎上で焼失しました。現在伝わっている開聞山古事縁起(神道体系 神社編四十五,神道大系編纂会,1987)は、枚聞神社別当寺瑞応院37代住職快寶の記述から“世人の要用たらさる”部分を割愛し、“紙數を少めて、人の見やすからしめんが爲に”編集された延享三丙寅歳五月(1745531~629日)の序文のあるダイジェスト版“開聞山古事略縁起”で、このエピソードは見当たりませんが、大宮姫が天智天皇から授けられた彦火〻出尊由来の潮満瓊(しほみつたま)潮涸瓊(しほふるたま)を操り大友皇子の放った追捕の兵を伊勢國稲渡川を氾濫させて撃退するという一大スペクタクルが展開されます。
[15] “シカアシ”ツは三國名勝圖會のルビに従ったもので、“カシ”ツと読むことが一般的かと思われます。古事記では(かむ)阿多都(あたつ)比売ですから薩摩半島出身であったことはまず間違いないのでしょうが、神武天皇のひいおばあさまなので38代天智天皇とは時代が隔絶しています。
尚、“カゴシマ”の語源は“水主(かこ)(しま)”ではないかという説もあるようで、隼人の祖が海幸彦であることを考えれば、これはこれでありそうに思えます。
[16] 麑藩名勝考(鹿児島県史料,鹿児島県維新資料編さん所,1982)は“雜寳藏經に波羅奈國の山中に梵志といふ者あり、鹿その梵志精氣を甜てひとりの女子を生りとあり、大宮姫の麋の腹より生まれしといふ、雜寳藏經の説を取合たる者といへり”と、類似の考察を加えています。摩耶夫人が鹿から生まれたという逸話は大方便佛報恩經にもみえ、“十町溶岩”のページで紹介しています。
[17] 枚聞神社の祭神は正式には大日霎(おおひるめ)(むちの)命(天照大神)、及び天之(あめの)忍穂耳(おしほみみの)命、天之(あめの)穂日(ほひの)命、天津(あまつ)彦根(ひこねの)命、活津(いくつ)彦根(ひこねの)命、熊野(くまの)樟日(くすひの)命、多紀理(たぎり)毘賣(ひめの)命、()依毘賣(よりひめの)命、多岐都(たぎつ)比賣(ひめの)命の五男三女神です。但し“開聞町誌(1973330日)”に拠れば、1927(昭和二)年に長谷川長五郎宮司長が内務大臣に提出した“御祭神正祀儀ニ付具申書”は豊玉姫説を採っているそうです。
頴娃郡枚聞神社は出水郡賀紫久利神社と共に延喜式巻第十 神祇十 神名下国立国会図書館デジタルコレクションに名の見える薩摩國二座のうちの一つですが、各国守護が正應六年二月十一日(1293327日)の関東御教書により先の元寇(文永十一(1274)年・弘安四(1281)年)を意識した異國調伏の祈祷のため各国一之宮への剣一腰と神馬一疋の奉納を命じられた際に当時の島津家当主四代忠宗が剣と神馬を奉納した先は延喜式には名の無い新田神社。四月二十日(63日)付の島津忠宗施行状(新田神社文書,舊記雑録 家わけ十,鹿児島県史料,鹿児島県歴史資料センター黎明館,2005131 日)では薩摩一之宮を巡る枚聞神社との争論に触れつつ“依之不可有一宮治定之儀”と念は押されているものの、どのような印象を与えるかは自明です。
[18] 本藩地理拾遺集 下(大隅国・諸縣国),鹿児島県史料集(32),鹿児島県立図書館,19929月;志布志市埋蔵文化財発掘調査報告書10:(伝)六月坂横穴墓,志布志市教育委員会,2013328
[19] 本藩地理拾遺集 下(大隅国・諸縣国)(鹿児島県史料集(32),鹿児島県立図書館,19929月)での表記は“頴娃平”です。
[20] これだけでも充分に鬱陶しい住所ですが、2020年まで、志布志市役所の志布志支所に書面で連絡をとる際の宛先は
                〒899-7103 鹿児島県志布志市志布志町志布志2丁目1-1 志布志市役所 志布志支所
でした。
2019624日、志布志市市議会定例会で“志布志市役所の位置を定める条例の一部を改正する条例の制定について(議案第34号)”が原案通り可決されたことで、20211月より、志布志市志布志町志布志にある志布志市役所志布志支所は、志布志市志布志町志布志の志布志市役所となっています。
遷宮は、三國名勝圖會に拠れば、大同261日(807713日)のことです。
[21] 鹿児島県立図書館発行“薩藩名勝志 その二(鹿児島県史料,2004年)”の“酒甕絵図説明”では“大宮姫都より携へ来り給ふ甕なり、”と、“甕なり”の後に“、”があり、“酒部屋”の“酒”は“酒”ではなく“洒”です。

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