薩摩焼(白薩摩) |
拾九町村東方にあり、湯峯の東面八分に當り、湯泉湧出して、常に湯烟起り上る、其湯性甚熱して近き難し、莔麻の類を浸し置に、一日にして能熟す、浴治に用ゆべからず、
三國名勝図會 巻之二十一 四
“湯峯”として紹介されている東方2921の通称“巣目権現”の噴気帯です。
権現山は、湯峯神社を北縁とする直径1.5Km程度の火口地形や鰻池北縁の東に位置する280.3m標高点を中心とする小型の火口とおぼしき地形の存在から、小規模な成層火山の集合体ではなかったかと考えられています。斜方/単斜輝石安山岩・デイサイト溶岩、スコリア・火山灰層の互層構造が、南北方向には鰻池の南側に当る山川粘土変質帯から高江山手前まで広範に拡がる7~5万年前頃に成立したと考えられている地質遺産で、指宿に存在する複数の変質帯の粘土は殆どが権現山成層火山体の安山岩(lgy)を母岩としています。こちらをクリックしてpop-up表示されるウィンドウを南にスクロールして頂ければ、lgyの分布が南側では山川にまで至っていることをご確認頂けます。
川辺禎久・阪口圭一“開聞岳地域の地質(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター,2005年,地域地質研究報告-5万分の1地質図幅 - 鹿児島(15)第100号)”で採用された試料の二酸化珪素(シリカ)とアルカリ成分の含有量は、こちらからpop-up表示される図に示す比率となっています。
最も北に位置する変質帯は権現変質帯。南東部で温湯から池底にかけて分布する指宿粘土変質帯に属するカオリン山[1]に接します。カオリン(カオリナイト・高陵石)の名称は、景徳鎮の磁器に使用された粘土質鉱石を産出する中国の“高嶺”に由来し、白薩摩の原料でもあります(このページの下にある“白薩摩”の項をご参照ください)。残念ながら左の画像の露頭は既に存在しませんが、その上を走る車道の脇は現在も活動中の噴気帯です(画像クリックで周辺の露頭の画像が表示されます)。
南部の池田湖東南の火口状地形は池底溶岩に埋められ、全体が清美岳、池田火山のテフラ層に覆われていることから露出はさほど多くはありませんが、阿多カルデラ噴火以降、7~5万年前頃にかけて堆積したと考えられる輝石安山岩、デイサイト溶岩層で、熱水による変質岩が粘土鉱床を形成している産業遺産です[2]。
“巣目”は、蒸気の噴出口、或いはこれを天然の竃として利用したもので、薩摩言葉の“スモル(煙、蒸気等が籠る)”が転じたとする説があり、鰻池変質帯でも見ることができます。ピクニックがてら、布巾と生のサツマイモや卵などの食材をおもちになれば、“浴治に用ゆべから”ざる熱量をお楽しみになれます。
鹿児島県神社庁に拠れば、現在の祭神は湯峯神ですが、伴姓頴娃氏の重臣を祖とする中福良竹内家の氏神であった熊野権現が飛翔したとの伝承があります。当時のご神体は法螺貝であったようですから、修験道由来の神社でしょうか。
故郷忘じ難しとは誰人のいひ置る事にや、只今にてはもはや二百年にも近く、此國の厚恩を蒙り、詞までをもいつしか習ひて、此國の人にことならず、衣類と髪のみ朝鮮の風俗にて、外には彼地の風義も殘り申さず、絶て消息も承らさる事に候へバ、打忘るべき事に候へども、唯何となく折節に付ては故郷床しきやうに思ひ出候ひて、今にても歸國の事ゆるし給ふほどならは、厚きを忘れたるには非ず候へども、歸國致し度心地候といへるにそ、
橘南溪・平出鏗二郎標註“西遊記”,標註東西游記、,松崎蒼虬堂,1895年2月8日
司馬遼太郎の短編のタイトルにもなった、胸を締めつけられるような紀行文の一節です。
慶長の朝鮮侵攻に参陣した島津家17代義弘(惟新公)の水軍は、秀吉死去後の海上封鎖により順天倭城で身動きがとれなくなっていた小西行長軍救援の先鋒を務めます。この時の露梁海戦では朝鮮側も李舜臣を失いましたが、侵略軍の損失も大きく、軍船200艘が海の藻屑と消えたとする記録もあります。劉仁軌率いる唐の水軍に挑んで軍船400隻を失い、白村江を血に染めて以来の大敗です[3]。当然のことながら、乗員も犠牲となりました[4]。
義弘は海戦から1ヵ月後の慶長三年十二月(1599年1月)に釜山から脱出。行き掛けの駄賃に現地の陶工を拉致して帰国しますが、薩摩の水軍に拉致被害者を護衛するほどの余力があったとはとても思えません。おそらくはその意図すらもなかったのではないでしょうか。“先年朝鮮より被召渡留帳[5]”には、同年、串木野の嶋平(現島平)、市来(原文では市木。現在は日置市)の神之川、鹿児島の前之浜に陶工達が“着船”したとあるものの、実態は漂着に近いものではなかったかとも考えられます。
このうち串木野に上陸した43名の男女には、更に過酷な運命が待ち受けています。
所之者共異國人之事故毎々欺妨シ有時燒物仕候小屋へ草履ふミながら入來リ甚自由ヶ間敷有之候ニ付 左様無之様申上ゲ候得共言語不通なほ以て自由體に御座候故 其者を打擲仕候由 然る處に其日より所中之者より徒黨を組み返報ヲ爲シ狼藉仕候由 手様を以テ知らせ候者有之候に付 極月末爰元へ迯レ來テ木之下にたより哀敷體に罷居候處 其邊之百姓共見當 追々食物を喰せ申候由 其後小屋を結ビ或ハ百姓之家など便リ两三年も相過申候
“先年朝鮮より被召渡留帳”,陶器集説 説
いちき串木野市にも本(旧・舊)壺屋、唐船塚という地名や窯跡が残っているようですが、原住民の執拗な迫害から身を守るために移住した先の、心優しい民の住む“この地”は苗代川。旧日置郡伊集院郷苗代川村、現在は沈壽官窯で知られる日置市東市来町美山。これが苗代川焼の始まりとなります[6]。
朝鮮/高麗筋目として士分の扱いを受け、その技能を庇護されるに至るのは、移住から更に後のことです。朝鮮から帰国後、2年も経たずに無双の美丈夫豊久を含む多数の犠牲者を出し、“捨奸”に甘んじた家臣を見殺しにして関ヶ原から逃げ帰った義弘は桜島に蟄居。長期に亘る交渉の末、1602年に本領を安堵されたばかりの島津家に、茶道具にうつつを抜かしている余裕はなかったでしょう。
寛永の比朴氏平意嫡子與用と云者陶器製造功者之ものに而白土探索之爲諸所巡廻せしに加世田の内には白砂見出し指宿之内江白土を見出す 又山川之内成川村江白土見出といへとも今絶てなし 苗代川白燒之發起は此两人なり
小野賢一郎編“陶器全集 第十七 圖解薩摩燒”,民友社,1932年12月25日
と、苗代川白燒とある白薩摩の原料発見は、陶工拉致から30~50年後の寛永年間(1624~1645年)です[7]。伝統的な白薩摩には、指宿・山川産の陶土[8]と加世田産の白砂(笠沙陶石)[9]が用いられ、斉彬公が輸出振興を通じた外貨獲得を計画するまでは[10]、島津家御用達の門外不出の大名道具でした。
夫故に上品の燒物は太守よりの御用ものばかりにて、賣買を巖敷禁ぜらる。これにより平人の手に入事なく、他國にてももてはやせることを見へず、余も案内者に賴みて求めけれども、白燒は得る事あたはず、やう〱黒燒の中の上品の小猪口一つを得たり、これも余が遠国もの故に内密にて得させたるなり、
橘南溪・平出鏗二郎標註“西遊記”,標註東西游記、,松崎蒼虬堂,1895年2月8日
“黒燒の中の上品”は梨地の御前黒でしょうか。
近代に入って藩の後ろ盾を失った薩摩焼の衰退に伴い、指宿カオリンの産業用の用途はアート紙コーティング、化粧品等へとシフト。現在はそれも絶え、稼行している採石場はありません[11]。
島津齊彬言行録 巻之一“陶磁器ノ製造御改良ノ事”,岩波書店,1944年11月5日
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